飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
匠年表
飛騨匠関係年表
西暦 [ 和年号 ] |
出 来 事 |
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468 [ 雄略12 ] | 木工闘鶏御田(つげのみた・斐陀の国人)、天皇の命を受け、楼閣を建てる。(『日本書紀』) |
469 [ 雄略13 ] | 9月 木工猪名部真根(いなべのまね)、罪を得て刑を受けるところになったが、同伴のものが歌を作って悲しんだので天皇も悟ってこれを赦した。(『日本書紀』) |
522 [ 継体16 ] | 司馬達等(しばたつと)が帰化する。 |
538 [ 宣化3 ] | 百済の聖明増王が仏像と経綸を献上する。 |
584 [ 敏達13 ] | 司馬達等の娘嶋(斯末売)、百済からの渡来僧恵便に従って出家、得度し、善信尼と称する。 |
586 [ 用明2 ] | 司馬達等の子鞍部多須奈(くらべのたずな)は、病臥の天皇のために、出家し、丈六の仏像を造り寺院を建てることを申し入れ、許される。多須奈が、良材を求めてきた飛騨の天生山中で土地の娘に男子を生ませた。それが後の止利(鳥)仏師という伝説がある。 |
592 [ 崇俊5 ] | 法興寺(元興寺)の仏堂と歩廊を起工する。 |
596 [ 推古4 ] | 法興寺が完成。 |
599 [ 推古7 ] | 鞍作止利(鳥)は、大和へ入る。 |
601 [ 推古9 ] | 聖徳太子、斑鳩宮を造る。 |
605 [ 推古13 ] | 鞍作止利は、天皇に丈六の仏像造りを命ぜられる。 |
606 [ 推古14 ] | 止利が造った丈六の仏像は見事な出来ばえであった。安置する元興寺金堂に入らなかったのを、止利の工夫で堂戸を破らず納めることができた。 |
622 [ 推古30 ] | 聖徳太子、薨去。 |
623 [ 推古31 ] | 鞍作止利は釈迦三尊を造り、法隆寺金堂に納められる。止利は、さらに、金堂の壁絵を描く |
646 [ 大化2 ] | 改新の詔を宣す。木工寮を置き、飛騨国出身の荒田井比羅夫を将作大匠とする。 |
650 [ 白雉元 ] | 比羅夫に、新宮の境標を建てさせる。 |
686 [ 朱鳥元 ] | 天武天皇が没する。大津皇子、謀反が発覚して自殺する。新羅沙門行心(こうじん)は、謀反に関与したという理由で、飛騨国伽藍に流される。この伽藍は寿楽寺(飛騨市古川町太江)と考えられている。 |
694 [ 持統8 ] | 飛騨国荒城郡の人弟国部弟日(おとくにべのおとひ)が、白い蝙蝠(こうもり)を獲って献上。 |
702 [ 大宝2 ] | 大宝律令施行。(大宝元年制定)賦役令の一部に、斐陀匠条項が盛り込まれる。飛騨国は、課役を免じて米を輸し、里毎に匠丁10人、4丁毎に廝丁1人を徴用するものとされる。 |
710 [ 和銅3 ] | 平城京に遷都。 |
718 [ 養老2 ] | 養老律令撰修開始。飛騨工、近江国野洲郡御上神社を建てる。 |
722 [ 養老6 ] | 木工寮に「飛騨工37人」が見える。 |
740 [ 天平12 ] | 飛騨国から白狐や白雉を献上。 |
741 [ 天平13 ] | 諸国に国分寺・国分寺尼寺の造営が命じられる。 |
742 [ 天平14 ] | 甲賀宮(紫香楽宮)の造営始まる。 |
743 [ 天平15 ] | 大仏発願、同19年鋳造開始。天平勝宝4年(752)開眼会。 |
745 [ 天平17 ] | 4月、飛騨工の従事記録甲賀宮造営に38人。 10月17日、奈良宮造営に19人、甲賀宮造営に18人。 10月21日、奈良宮造営に27人、甲賀宮造営に18人。 |
749 [ 天平勝宝元 ] | 飛騨国造高市麻呂(たけちまろ)、国分寺に献物し従五位下に叙位。 |
757 [ 天平宝字元 ] | 養老律令の賦役令が施行され、斐陀匠条附則が定められる。斐陀国は庸調は免ぜられ、代わりに、里毎に匠丁10人、4丁毎に1人の廝丁が徴用され、1年交替で、余丁は米を輸し、匠丁の食に当てるようにとある。 |
762 [ 天平宝字6 ] | 石山寺造営に飛騨工が多く従事。諸院が建つ。従事し功績の多かった工匠に、木工散位寮散位従八位下勾猪麻呂(まがりのいのまろ・飛騨国荒城郡の人)の名が見える。 |
757~764 [ 天平宝字年間 ] | 万葉集が選集される。その中に、飛騨匠を歌った作品が2点ある。その1は 「かにかくに 物は思はじ 斐太人の 打つ黒縄の ただ一道に」 |
768 [ 神護景雲2 ] | 飛騨国造高市麻呂、造西大寺大判官に任命される。 |
794 [ 延暦13 ] | 山城国平安京完成する。造営に飛騨工従事。飛騨工「豊楽院」を建てる。豊楽院は飛騨匠檜前杉光(ひのくまのすぎみつ)の建造という説がある。『今昔物語』の中の一話「絵師百済河成と飛騨匠技を競う」に登場した名工は、檜前杉光という。 |
796 [ 延暦15 ] | 飛騨工の逃亡者を捜捕させる。 |
811 [ 弘仁2 ] | 逃亡した飛騨工の不役は、調庸未進に準じて処理するとされる。 |
814 [ 弘仁5 ] | 飛騨工を捕まえるよう太政官令を布達。飛騨の民は言語、容貌が異なるとある。 |
819 [ 弘仁10 ] | 飛騨国分寺炎上。飛騨工の1年の役を、300日以下250日以上と定める。 |
834 [ 承和元 ] | 逃亡の飛騨匠を捜捕させる。 |
864 [ 貞観6 ] | 年季を終え、帰国した飛騨工の徭を免除する。 |
866 [ 貞観8 ] | 飛騨工貢進の数を減らす。年間100人を、60人に3年間減ずる。 |
870 [ 貞観12 ] | 飛騨国大野郡を分けて、益田郡が分立する。南部の集落発展による。 |
876 [ 貞観18 ] | 朝堂院・神泉苑などの造営のため、飛騨工100人が貢上される。 |
877 [ 元慶元 ] | 飛騨工、大極殿の工事に従事する。 |
879 [ 元慶3 ] | 大極殿等の作事が終わり、飛騨工は祝宴に参会することを許される。 |
881 [ 元慶5 ] | 貞観18年に朝堂院等の工事作事のために徴した飛騨工100人から40人を減ずる。 |
887 [ 仁和3 ] | 大工猪名部有吉は、外従五位下を授けられる。 |
927 [ 延長5 ] | 延喜式成立。中務省時服条に、「木工寮飛騨工37人、修理職飛騨工63人」と見える。 |
928 [ 延長6 ] | 内裏の朝堂院の火災消火隊に飛騨工の姿が見える。 |
961 [ 応和元 ] | 内裏再建が完成し、飛騨工は祝宴参会を許される。 |
999 [ 長保元年頃 ] | 飛騨匠が一条天皇に妙手を見せ、花を降らせたという。 |
1157 [ 保元2 ] | 内裏の棟上げが行なわれ、飛騨は玄祥門があてがわれる。(『飛騨編年史要』) |
1192~1333 [ 建久3 ] | 源頼朝、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く。 |
1311 [ 応長元 ] | 飛騨匠の藤原宗安(飛騨権守)、郡上郡長滝の白山長滝寺を建てる。 |
1390 [ 元中7 ] | 荒城神社(高山市国府町)本殿が建てられる。 |
1408 [応永15 ] | 飛騨安国寺(高山市国府町)経蔵が建てられる。 |
1394~1412 [ 応永年間 ] | 飛騨匠、江戸円融寺の釈迦堂を建てる。 |
1488 [ 長享2 ] | 白川郷中野に照蓮寺が建てられる。 |
1581 [ 天正9 ] | 久津八幡宮拝殿が建てられる。桂川孫兵衛が棟梁。 |
1586 [ 天正14 ] | 金森長近、飛騨国を所領とした。順次、高山城や増島城(飛騨市古川町)などを築き、飛騨国分寺や千光寺を再興する。さらに、高山や古川・船津などの町づくりを行なう。 |
1593 [ 文禄2 ] | 藤原棟教、遠江国佐野郡飛鳥村の永江院を造る。 |
1600 [ 慶長5 ] | 関ヶ原合戦で、徳川家康が大勝利をおさめる。 |
1603 [ 慶長8 ] | 徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
1612 [ 慶長17 ] | 金森可重、将軍徳川秀忠に、批目面桶(へぎめめんつう)・塗木地2組と雉1連を献上する。これが、飛騨春慶の初見とされている。 |
参考、引用文献
- 岡村利平著『飛騨編年史要』住廣造発行 大正10年
- 里中満智子ほか作画「マンガで見る日本まん真ん中おもしろ人物史シリーズ5」『飛騨の匠』岐阜県企画発行 2002年
- 岐阜県博物館編『飛騨の匠』岐阜県博物館友の会発行 平成3年 第2刷
- 『新・飛騨の匠ものがたり』協同組合飛騨木工連合会発行 平成14年