飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
飛騨の工芸(春慶、一刀彫)
春慶塗の由来
江戸時代初期の慶長年間(1596〜1615)、高山城下で寺社造営に携わっていた大工棟梁の高橋喜左衛門が仕事中に割ったサワラの美しさに感動した。これを盆に仕立てて、高山城主金森可重の嫡男重近(後の宗和)に献上した。重近は、その雅趣ある出来映えを喜び、早速御用塗師の成田三右衛門に、塗を命じた。三右衛門は透漆を用いて割目を生かした見事な盆に仕上げ、これが飛騨春慶の始まりといわれる。
茶人・金森宗和
重近の祖父金森長近は、武家茶人として知られ、伏見城下の邸宅には茶室が設けられ、徳川家康や秀忠を招いた茶会がしばしば開かれた。茶室の平面図が遺っている。
また父可重は利休、織部、道安らから茶を学び、利休亡き後、茶道具の目利きの第一人者として聞こえ、第2代将軍秀忠の茶の指南役も務めた。金森家は茶に縁の深い家であり、重近も幼少の頃から茶に親しみ、次第に自身の美意識を培っていった。しかし30歳の時、父と不和になると京都に出て大徳寺で剃髪し、重近改め宗和と号す。宗和は華やかで、雅な中にも武家の厳しさを備えた、いわゆる姫宗和といわれる独自の茶の世界を作り上げた。
宗和は茶道具の製作にも大きな足跡を残している。御室焼の野々村仁清を指導し、利休好みとは一線を画す華やかで雅な茶器を数多く生み出している。春慶も宗和好みの茶器として、京都の茶会でしばしば使用されたのである。やがて春慶は江戸時代中頃から庶民も手にするようになり、次第に重箱・盆など一般生活用品が多く作られるようになってゆく。
※財団法人飛騨地場産業振興センター発行リーフレット「伝統工芸飛騨春慶」より引用。
飛騨春慶の製作方法
飛騨春慶の素材は、ヒノキ、サワラ、トチなどで、木地の美しさを透明な塗りで生かすのが特徴である。木地づくりは、板を曲げてつくる「曲物」、何枚もの板を組み合わせてつくる「板物」、ロクロでくり抜く「挽物」など、木地の種類によってさまざまである。いずれも製材から仕上げまで数多くの工程に分かれている。
飛騨春慶は、蒔絵や沈金で加飾するかわりに、木地に批目、割目、鉋目、打出し模様などの加飾を施す。桜の皮を使ったカンバ差しも、加飾の一種の役割を果たす。形の整った木地は木地師から塗り師の手に渡る。塗りの工程は木地の美しさを出すための木地磨きから、塗りむらを防ぐ目止め、着色、大豆汁やカゼインで木地に薄い皮膜をつくる下塗り、生漆の摺り込み、精製漆で塗り上げる上塗りまで、何か月もかかる。
木地製作
塗り物の素材である木地を製作する人を「木地師」という。「飛騨春慶」は、木地の素材そのものを見せる塗りのため、木地のできばえが、塗りの仕上がりに直接影響することから、丁寧な加工が求められる。飛騨春慶は上に塗る漆が透明なだけに、ごまかしややり直しがきかず、木地師の腕と良質な木材によるところが大きいのである。
板物、曲物
「板物」は、重箱のように板を合わせて作ったもの、「曲物」は、お盆のように板を曲げて作ったものをいう。板物や曲物に使う木は主に針葉樹の「檜」(ひのき)で、しなやかで木目が美しく、木地目を見せる飛騨春慶に適した材である。
挽物
「挽物」は、椀のようにロクロ挽きしたものをいう。挽物には、適度な硬さを持ち、白く美しい広葉樹の「栃」(とち)が主に使われる。
批目(へぎめ)
木目の縁を刃物で起こす技法。材にはサワラの木がよく使われる。
鉋目(かんなめ)
鉋の目を規則的に入れる技法で、模様にはさまざまなものがある。
この他、「割目」(材を、鉈で割り、現れた目をそのまま装飾とするもの)や「浮き出し」(装飾模様を木に押し当て、蒸気を当て圧着部分を浮き出させる方法)などがある。
木地に絵や字
また、木地に直接墨で絵や字を施すこともあり、春慶の下から墨の黒が渋い風合いを醸し出す。
塗師(ぬし)
木地に漆を施す人たちを塗師という。日本における漆の仕様は縄文時代にさかのぼる。世界最古の漆の破片は、縄文遺跡から発掘されたもので9,000年以上前のものもある。
英語で漆器のことをJAPANというが、まさに漆は日本人の生活とともに数千年にわたり連綿と使われ続けてきた素材である。
漆掻き
漆を採取することを「漆掻き」という。樹に傷をつけると、樹液が浸み出てくる。これを掻き集めたものが「生漆」(きうるし)である。
春慶漆の精製
生漆は成分が不均一で水分が多いため、まず「なやし」作業で成分を均一にし、「くろめ」作業で、熱を加えながら撹拌して水分を飛ばし精製する。これらの作業を通し白濁していた生漆は、次第に透明感のある黒褐色に変化する。
できた漆を「透漆」(すきうるし)という。これに艶を出すための油分を加えたものが「春慶漆」である。春慶漆は、他の塗りに比べより高い透明感が必要なため、透漆の中でも上質なものが使われる。
春慶漆
春慶塗は、目止め・下塗りの後、擢り漆を数回施し、最後に春慶漆を2〜3回塗り重ねて仕上げる。漆の乾燥は、洗濯物などのように水分がなくなることをいうのではなく、逆に空気中の水分に接することで化学変化が起き、漆成分が硬化することをいう。その乾燥(硬化)をさせるための専用設備が室(むろ)である。室の中は、湿度が一定になるように、水を含ませた紙や布が置かれ、湿度の調整が行なわれる。
また漆塗りに使う刷毛(はけ)は、漆の粘度に負けない強さと、しなやかさが求められることから昔より女性の髪の毛を固めたものが使われる。
硬化した漆は、防水性・防腐性に優れている上、艶やかで手触りが良く、特に漆は植物由来のため、食べ物を入れる重箱や弁当箱には最適の素材といえる。1975(昭和50)年2月17日、国の「伝統的工芸品」として指定されている。
※財団法人飛騨地場産業振興センター発行リーフレット「伝統工芸飛騨春慶」より引用。
一刀彫の始祖・松田亮長
一位一刀彫は江戸時代末期、高山の彫師であった松田亮長により生み出された。亮長は、1800(寛政12)年、高山の鋳金屋松田屋吉兵衛のもとで育てられている。幼い頃から彫刻に興味を持ち、長じてからは日本各所にある名勝の地を歴遊、彫工の名家を訪ねるかたわら、古い神社仏閣にある彫刻を研究し、技を磨いた。
亮長が奈良を訪れた際、奈良一刀彫を目にした。奈良人形ともいわれるその人形は、鮮やかな彩色がされていたが、木の風合いが失われていることを惜しみ、木肌そのものを生かした彫りはできないものかと考え、飛騨の銘木・一位の木を使うことを思い立つ。
一位は木目が美しく、朝廷に献上する笏の材料として使われていたが、亮長はこの木を使うことで、彩色に頼らず、木の美しさ、作品の風合い、彫り手の技量をともに生かす彫刻として「一位一刀彫」を考案したのである。
一位一刀彫は、1本の刀で彫られる必要はなく、亮長も木を生かし、作品に合わせた刀の使い方をしている。仕上げにトクサ・ムクの葉で磨き、ロウをひく手法も、亮長により始められたものである。
一方、亮長は、根付彫刻の名手としても聞こえ、その作品は名高く、伊勢の田中岷江、紀州の小笠原一斎、加賀の武田友月と並び賞される存在であったという。亮長は、蛇・蛙・亀などを得意とし、細密で写実的な根付を作る一方、一位を用いた簡潔な意匠と彫りによる作品も残した。