飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
名古屋城本丸御殿1160枚の建具復元工事
はじめに
「尾張名古屋は城で持つ」と詠われ、300年間の長きにわたって城下町名古屋のシンボルであった名古屋城は、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月、米軍の空襲によって焼失した。戦後まもなく、名古屋城の再建を願う機運が盛り上がり、1959(昭和34)年10月には、天守閣が、外観はそのままに鉄筋コンクリートで再建された。
しかし、同時に焼失した本丸御殿は、天守閣の隣の跡地に、礎石を残すのみとなっていた。名古屋市では2010(平成22)年に開府400年を迎えるにあたり、本丸御殿を復元するプロジェクトを進めることになった。そこへ日進木工㈱生産部文化財修復・復元部門が参加することになった。
本丸御殿が復元された暁には、江戸初期の武家美術の粋を集めた一大美術館になり、地域の誇り、名古屋発の文化の伝道、名古屋大交流となることを志した。
本丸御殿の建具を復元
文化財の「復元」は既に焼失等失われた文化財を図面や写真などの資料・記録をもとに新規に作り直して再現することで、これに対し「修復」は、修理品を完全に分解し既存部分を残し、老化・破損部分を除去したところのみ新しい材料を継ぎ足して修理する。名古屋城本丸御殿は戦災で全焼しているので復元工事となる。
木曽ヒノキを主材料とした板戸、障子、襖、杉戸、欄間などの建具を製作して現場取付施工を行った。この仕事を8年の歳月をかけて完納した結果として、日本の伝統である建具師の在来工法の手加工が、現代の名工・福井澄夫氏から機械加工しか経験のない若手に伝承された意義は大きいものがある。
本丸御殿建具復元工事の受注から完納まで
『飛騨の匠ものがたりⅣ』の「明治神宮 北鳥居「飛騨組」による建造」で掲載した山進木工所が30年以上にわたって携わってきた文化財建具保存修理の実績を評価されていたことで、公益財団法人文化財建造物保存技術協会より2008(平成20)年に設計見積の依頼を受けたが、名古屋市の入札となり安藤・ハザマ(当時、間組)JVが落札したので、さっそく以前からの人脈を利用して営業活動を始めようやく2009(平成21)年受注契約をする運びとなった。
東海3県で山進木工所1社だけが10年以上継続して建具の文化財修理をしていることから、他の業者に発注することは考えていなかったことを後から知らされた。受注から完納までの8年間のことは、山進木工所 元会長 指物師山下進一の長男山下昌男が日進木工㈱との合併後、営業を主として見積積算、施工図面作成、現場施工管理業務など生産部文化財修復担当として名古屋城現場と日進木工工場とを円滑に繋ぐという重要な役割で活躍する。
復元する建具はどのような概要だったか
徳川家康の命を受けて建設された本丸御殿の高い技術力と豪華絢爛さを兼ね備える建具(障子・襖・欄間)はいくら復元とはいえ、名古屋市の承認を得るためにたくさんの試作が必要であった。
全数1160本の膨大な建具の数、その内容は板戸451本、杉戸36本、舞良戸(まいらど)42本、襖108本、戸襖14本、帳台構(ちょうだいかまえ)2本、天袋襖16本、障子343本、筬欄間(おさらんま)18本、鞘欄間(さやらんま)45本、花欄間20本、連子窓(れんじまど)49本、無双窓6本、その他10本(整備工事)で構成され、建具として全種類を網羅するくらい多種多様な世界である。特に花欄間は1本木で造り出した組子を組み上げるという花狭間組子(はなはざまくみこ)であり、福井澄夫の腕が発揮された建具のひとつとなった。
襖に関しては、模写された障壁画を貼り込んで組むため、引手の穴開けには間違いが許されない大変緊張する作業だった。いずれにしても全てが現代では忘れ去られた工法であり、文化財修理の経験があるからこそ成せる復元作業であった。建具ひとつひとつのサイズも想定を超えた大きなもので、運搬・搬入や建込の際には注意が必要であり大変苦労した。
難しかった材料調達の苦労
使用材料は桧材だが、杉戸は杉の巾広の板という本当に贅沢な木材仕様であった。桧は主に木曽桧(官材)を調達したが、伊勢神宮の式年遷宮と重なったこともあり木曽桧の引き合いが多く、市場に出品される丸太に限りがあったのと、環境保護の問題もあり切り出す原木の減少と場所も限定され品質もだんだん悪くなっていった。
そんな状況下で名古屋市の材料検査に合格するためには苦労が多かったが、納入業者にはずいぶんとご無理を申し上げた。最終的には名古屋市の担当者も希少価値となった木材を出来うる限り使用する姿勢をみせてくれるようになり、結果として何とか無事に木材を準備できたことは幸いなことであった。
プロジェクトチームの連携作業
本丸御殿復元工事は1期〜3期に分かれており、工事契約は1期工事が2010(平成22)〜2013(平成25)年、2期工事が 2016(平成28)年、3期工事が2018(平成30)年3月までであった。1期と2期の間には多少の余裕があったが2期と3期では納期がつまっていた。1期工事は建築本体を含む全業種が手探り状態であったため工程の全体が大幅に遅れ、現場寸法が取れなければ自ずと建具製作及び建込時期も遅れがでたが、企業組織の力と建込作業には営業部門の総動員と高山の大工さんの協力で運搬・搬入を無事間に合わせることができた。
2期工事は1期工事の反省を踏まえゼネコンの協力もあり、速やかな施工図の承認と材料検査の時期を早めたことで、製作に余裕ができ現場建込作業も順調に進めることができた。さらに、3期工事はより少ない人数で効率よく進めることができた。受け入れ体制は、福井澄夫がリーダーの文化財チームと数の多い板戸は別チームを編成し家具ラインから優秀な人材の応援を得て、作業分担を図ることで順調に製作が進んだ。
1期~3期を通して、谷口宝工場長の指示で製品の表面の視覚に入らなくなるところは徹底的に機械を使用して加工時間の短縮を図り、仕上げについては手加工技術を充実させ品質向上につなげることができた。本丸御殿を施工した宮大工が納入後の杉戸を見て、「上手く仕上げてあるな。」と評価して感心していたことを思い出す。
高い評価と飛騨の家具ブランド化に貢献
2期工事が始まるころ「日進木工は名古屋市より高い評価を受けている。」とJVの担当者が教えてくれた。3期工事の後半になってくると、一つの現場でともに苦労している他業者さんと情報交換ができるようになり、屋根屋、漆塗屋、左官屋、大工、飾金物屋、表具屋、彫刻屋など一流の業者や個々の匠とのより良い絆が結ばれ、今後の文化財復元工事において大切な異業種間のネットワークを築くことができた。
最後に、日本古来の特殊な伝統的工法を遵守し、名古屋城本丸御殿の1160枚の建具を製作するという後世に自信をもって偉功を遺す素晴らしい仕事を成し遂げた実績は、現代の日本の匠・飛騨の匠の事績として、飛騨の家具のブランド化に多大なる貢献をしたものと確信している。
城郭御殿の最高傑作「本丸御殿」復元を可能にした歴史
徳川家康による名古屋城築城から、国宝指定により避難していた障壁画と実測調査による実測図と写真が戦災を免れたことにより完全な復元を可能にした。
天守閣と御殿の比較
天守閣は、基本的には戦時のための最終防衛拠点であり、日常生活のために都合の良い建物ではない。平和な江戸時代には、城の内部は急な階段や狭い空間など倉庫や空き部屋で、物見や見張り以外、めったに立ち入ることがなく、日常生活のために都合の悪い建物であった。一方、城主やその家族の生活、政務、来賓客の供応などは、城内の平屋の建物「城郭御殿」で行われていた。
本丸や二の丸に作られた御殿は、城主が快適に過ごせるよう、あるいは権力の誇示として、美しく飾られていた。御殿は江戸時代の城の中心、武家文化の真髄であったと言える。今も残る数少ない御殿のうち、名高いものは国宝であり、世界遺産である二条城二の丸御殿は、かつて名古屋にはこの二の丸御殿と双璧といわれる城郭御殿の最高傑作「本丸御殿」が存在していた。
1,300面もの障壁画に埋め尽くされた御殿
1612(慶長17)年に天守閣が完成。藩主の住まいであり、政庁舎である本丸御殿が1615(慶長20/元和元)年に完成した。 1620(元和6)年、敷地の広い二の丸御殿に、藩主の住まいと政庁舎の機能を移し、本丸御殿は将軍が上洛する際に宿泊する御成御殿、いわば迎賓館としての役割を果たした。
安土桃山から江戸期、日本建築史・絵画史・工芸史上で、最も豪壮華麗といわれている時代に、徳川家の威光のもとに造築された本丸御殿は、総面積約3,000㎡、部屋数30を超える空間が、当代一の狩野派の絵師たちによる1,300面あまりもの障壁画、精巧な彫刻欄間によって埋め尽くされた木造建築の極致ともいえる建築物であった。
それぞれの部屋は、用途・格式に応じて、水墨山水画や彩色花鳥画など、ふさわしい画題の絵で飾られて美しく調和し、なかでも、第3代将軍家光の上洛にあわせて増築された、将軍の居室となる上洛殿は、幕府御用絵師の狩野探幽によって描かれた帝鑑図や雪中梅竹鳥図など、装飾の限りをつくした華麗なものとなった。
明治期の取り壊しを免れ、国宝に指定
明治維新後、「旧物破却」の風潮によって、名古屋城でも二の丸御殿などが壊された。天守閣や本丸御殿も、何度か危機を迎えた後、天皇家に献上され名古屋離宮となった。1930(昭和5)年、名古屋市に下賜されるとともに、天守閣や本丸御殿をはじめとする24棟が国宝に指定され、翌年から一般公開されている。
名古屋城炎上、天守閣は外観のみ再現
1945(昭和20)年5月14日、米軍の空襲によって、天守閣などと共に本丸御殿は焼失した。戦後まもなく名古屋城再建を願う市民の声があがり、名古屋城の象徴ともいうべき、天守閣と金シャチは、1959(昭和34)年、鉄筋コンクリート造りではあるが、古写真や絵図面を元にして、外観を正確に復元し、内部は博物館相当施設として、展示室や催事場として利用された。一方、本丸御殿は、天守閣の隣の跡地に、礎石を残して、何十年も空き地のまま取り残されていた。
残された障壁画と豊富な実測図、写真資料で完全な復元を可能にした
空襲の直前、本丸御殿内の取りはずしができる襖絵・杉戸絵や天井板絵など1,049面の障壁画は、別の場所に避難しており焼失を逃れた。残された障壁画は、近世城郭御殿の全貌を概観できる貴重な存在として、重要文化財に指定されている。
また、1930(昭和5)年に名古屋城が国宝に指定された後、名古屋市によって大規模な実測調査が行われており、その際に作成された多くの実測図、写真が戦災を免れていた。本丸御殿の復元を実現する上で、以上の2点は非常に重要となる。残された障壁画と、豊富な資料によって、本丸御殿の在りし日の姿を、忠実に蘇らせることは実現可能だと言われていた。
※平成20年9月発行社団法人中部開発センター(現公益財団法人中部圏経済研究所)機関誌164号より出典