飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
東京美術学校工芸技術講習所が高山にあった 続編1
東京藝術大学美術学部教育資料編纂室が高山市現地視察に来る
2019(令和1)年 発刊『飛騨の匠ものがたりⅣ』の『東京美術学校 工芸技術講習所が高山にあった』を掲載するにあたり、東京藝術大学美術学部教育資料編纂室には資料提供をはじめ、ポイントとなるご意見を含めて、私どもの要望に快く応えていただき、たいへんなお世話になった。発刊直前の6月に東京藝術大学美術学部近現代美術史・大学史研究センター浅井ふたば氏がタイミングよく現地調査に来られたことをきっかけに、飛騨の匠学会の活動と相まってまさかと思う想定外の交流が成立したことは誠に光栄なことであった。飛騨・世界生活文化センター内 飛騨の匠ミュージアム、まちの博物館、芳国舎渋草焼窯工房などを視察されたことも含めて、浅井ふたば氏の新たな興味深い研究成果を寄稿していただいた。
以下の寄稿文は、論文【浅井ふたば「文部省工芸技術講習所と東京美術学校」『東京藝術大学美術学部紀要』第55号、東京藝術大学美術学部、2020年12月】にまとめられている。
高山と工芸技術講習所
東京藝術大学美術学部
近現代美術史・大学史研究センター 浅井ふたば
戦時中、文部省工芸技術講習所の出張教室が高山で開催された。工芸技術講習所は昭和15年から約10年という短い活動期間の後に閉所されたが、工芸技術講習所の設立によって、後の東京藝術大学(以下、「藝大」)美術学部工芸科に陶芸部門が増設(昭和30年)、さらにデザイン科が新設される契機となり(昭和50年)、藝大の歴史を考える上で非常に重要な意義を持っている。しかし、戦中・戦後の混乱期に活動したため残された資料は少なく、工芸技術講習所で作られた実際の作品は高山に残るのみで、芳国舎の渋草焼陶磁器類や小島政一氏(元岐阜県工芸指導所所員)製作の春慶塗は、工芸技術講習所の活動の貴重な証拠であるといえる。
「陶製白鳥」津田信夫作?
東京美術学校工芸科鋳金部教授 工芸技術講習所 岐阜県高山市出張教室日誌の1942(昭和17)年7月28日記載
「朝、津田先生の型を藤本、加納と小生三人して渋草に運ぶ」記録者中田満雄、1943(昭和18)年7月11日
「白マツトがどうも溶けていないので、津田先生の鬼、白鳥が心配になる」記録者藤本能道と日誌に記載があり、白鳥は津田信夫作である可能性が高い。
小島政一作品
講習所生徒の図案による飛騨春慶の試作品。元岐阜県工芸指導場所員として、春慶塗に秀でた技法を持つ小島政一は、このモダンなデサインの曲線美溢れる春慶塗の作品製作(春慶木地職人と合作か?)に携わったのではないだろうか。
工芸技術講習所は、そもそも何を目的とした機関なのか明らかにされていなかった。工芸技術講習所は、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部、以下、「美校」)にはなかった「産業工芸」を研究するための機関である。美校では明治22年の開校以来、伝統的に一品制作による観賞用工芸品を得意としてきた。しかし昭和初期、外貨獲得のため国が輸出工芸振興策を実施すると、大量生産が可能で生活に根ざした工芸(いわゆる産業工芸)が輸出品の主流となったため、美校工芸科にも産業工芸を研究する場を設ける必要性を唱える教員たちが現れた。それが、工芸技術講習所を主導した鋳金部教授の津田信夫、漆工部助教授の山崎覚太郎である。しかしこの当時、美校工芸科の教員のほとんどは産業工芸に関心を持たず津田や山崎の動きに反発したため、文部省直属の研究機関として、美校とは別に工芸技術講習所が設立された。工芸技術講習所は戦後に美校(昭和23年)、藝大の附属(昭和25年)となったため、歴史的に見れば「藝大」の工芸技術講習所ということができるが、設立当初は別組織であった(ただし、美校工芸科の教員が工芸技術講習所の教員を兼務、美校の教室を間借りしていた)。
工芸技術講習所が高山で出張教室を実施した理由について、教員の中田満雄が岐阜県萩原町出身であったという地縁によるつながりが指摘できる。中田は美校の図案科を昭和6年に卒業した後、雑誌『帝国工芸』の編集主任を務めた。この雑誌は、国の輸出工芸振興策と連動して昭和初期に結成された団体「帝国工芸会」の機関誌で、地方産業の啓蒙活動を伝える役割を担っていた。中田はこの誌面で、飛騨春慶に関する記事を掲載している。工芸技術講習所の教員は基本的には産業工芸に関心を持つ美校工芸科の教員が兼務したが、中田は外部から招かれた教員だったことから、中田は産業工芸の専門家として、工芸技術講習所にとって必要な人材だったと考えられる(中田の他に外部から招かれた教員には、陶芸家の加藤土師萌らがいる)。
また、工芸技術講習所が高山に置かれた理由として、高山には豊富な資材があったこと挙げられる。戦時中、金属や漆などの工芸品の資材が不足したため、実質的に継続可能な産業は、国内で資材入手が可能な「木工」と「窯業」だった。高山はこれら両産業を抱え、さらにそれぞれが全国的に高いレベルの技術を持っていた。工芸技術講習所は、合理的かつデザイン性を併せ持つ工芸品を生産するための、大規模な工場を建設するという構想を持っていた。しかし戦争の影響で活動規模を縮小せざるを得ず、産業工芸の実習ができる場を学外に探すことになったため、高度な産業技術を持ち、かつ資材が豊富な高山が選ばれたと考えられる。
しかし、なぜ高山産業界が工芸技術講習所を受け入れたのか、という疑問が残る。当時の高山では、今で言うところの「デザインを洗練させる」という課題があった。高山では新しい図案を求め、一方で工芸技術講習所は実習場所を求めていたことから、高山産業界は工芸技術講習所へ場所を提供し、工芸技術講習所は高山産業界へ図案を提供するという協力関係が成立した。
高山における工芸技術講習所では、加藤土師萌、富本憲吉ら工芸技術講習所教員の指導の影響もあり、戦時中であっても「美」を感じさせる作品を多く作った。この事実は、当時としては異例であったと考える。例えば、同じ岐阜県の多治見などでは、国民に向けた「統制陶器」を生産しており、その大部分は規格や寸法を順守しただけの質素な食器であった。これらは、平成8年11月に高山郷土館で開催された「人間国宝 戦時中のやきもの展 工芸技術講習所高山出張時代の作品展」で展示された陶磁器類と比較すると、大きな違いがある。この点は非常に興味深く、高山という土地だったからこそと感じる。
高山の工芸技術講習所は、後に人間国宝となった藤本能道が陶芸を始めた場所であり、また戦後を代表するインテリアデザイナーである松村勝男、佐々文夫が学んだ場所でもあるため、日本の近代工芸・デザイン史にとって非常に重要な意味を持つ場所である。
〈戦時中の高山産業の実態解明につながる資料〉
①1942(昭和17)年度工芸技術講習所高山出張教室の日誌
②1943(昭和18)年度工芸技術講習所高山出張教室の日誌
③工芸技術講習所が1943(昭和18)年度に高山で生産した商品の一覧表
① 東京藝術大学美術学部
近現代美術史・大学史研究センター所蔵
「岐阜県高山市 臨時出張講習日誌」の表紙
自1942(昭和17)年4月14日 至同 年9月6日 工芸技術講習所
② 東京藝術大学美術学部
近現代美術史・大学史研究センター所蔵
1943(昭和18)年度 (4月15日より)
「岐阜県高山市 出張教室日誌」の表紙 工芸技術講習所
1943(昭和18)年生産品売却及保存調査(高山で生産した商品の一覧表)
※注:画像に付記した注釈は飛騨の匠学会編集員による