飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI

京都東寺焼失した大伽藍食堂を飛騨出身、松永昇道大僧正が再建

真言宗総本山東寺 松永昇道大僧正(写真:飛騨国分寺蔵)

1866(慶応2)年正月15 出生丹生川村町方、幼名鶴次郎
1879(明治12)年 国分寺空広師の弟子、実名空意 仮名(けみょう)昇道
1888(明治21)年 高野山大学第一回の卒業生
1923(大正12)年9月27日 大僧正、真言宗東寺派管長、真言宗総本山教王護国寺住職
1942(昭和17)年12月1日 御遷化(ごせんげ)享年77歳

飛騨の巨星―京都東寺 松永昇道大僧正の歩み

飛騨国分寺前住職北原哲雄師1917(大正6)年〜1989(平成元)年が書き残された論文「明治飛騨の教界 真言僧の動向」には、飛騨国分寺の住職になるべき飛騨出身幼名稲垣鶴次郎が京都東寺の大僧正になって出世することが記されている。


東寺は唯一現在に残る平安京創建当時の遺構で飛騨の匠が建造に携わったことが推測できる。惜しくも1930(昭和5)年東寺の食堂(じきどう)が火災で焼失したが、3年後の1933(昭和8)年に再建され講堂が修理された。松永大僧正在籍中の出来事であり、大僧正として迅速な復元・修復への格別の思いがあったであろう。

 

焼失した食堂の再建に飛騨の匠が携わった形跡はないかと、東寺に調査を依頼したが、「食堂再建の棟札には東寺が勧募を行い、その設計施工は京都府主導で行われた」ことが記されており、飛騨の匠が関わった資料もなく、可能性は不明である」との回答だった。しかし、松永大僧正が飛騨出身者として飛騨の匠の存在を知らぬはずはなく、何らかの形で携わったのではないかと思うのが自然だろう。

 「明治飛騨の教界、真言僧の動向」
−飛騨国分寺前住職 北原哲雄師執筆の要点−

明治維新政府のとった神仏分離政策はやがて廃仏毀釈の運動により維新後10年ばかり仏教界は沈滞し、飛騨地方においても、特に真言寺院の被害は甚大で神仏分離令によって廃絶する寺院が続出した。飛騨国分寺は飛騨真言の牙城千光寺と並ぶ真言の道場であったが、明治分離令と共に法灯も動揺し、金森以来の未曽有の法難であった。


1869(明治2)年、寺禄を失った国分寺に30余年住した風雅清貧の第19世法印空広和尚は行儀堅く、時相にも精通し、殊に茶道に達し、高山に表千家流を導入した治績は高く評価される。この和尚の膝下より巨星現われ、実に大正、昭和の真言宗を担い、斯界の大導師となった松永大僧正の事績は特筆大書すべきである。


真言宗総本山東寺は教王護国寺と称し、京都市下京区九条に位置する。寺域四万坪、823(弘仁14)年弘法大師空海が嵯峨天皇より拝領し、鎮護国家、真言密教の根本道場と定められ、累代王城の鎮護に任じた。第251世住職大僧正松永昇道大和尚は1866(慶応2)年正月15日丹生川村町方稲垣市左エ門、母 のぶ二男として出生、幼名鶴次郎。いたって聡明、1879(明治12)年国分寺空広師の弟子となり薙髪、実名空意仮名昇道と称した。1881(明治14)年昇道は高野山に上り大楽院鼎龍暁の門資となる。

 

1888(明治21)年9月高野山大学第一回の卒業生が松永昇道唯一人であったことは驚きである。昇道はその後、性相華厳等の仏教学を名師に学び、特に事相については奥義を究め近代の巨匠と称される。1889(明治22)年より36年まで高野、東寺各大学、中学に教鞭を執っていたが恩師空広法師は36年9月4日示寂(じじゃく)。

 

当然昇道が帰国して国分寺を継ぐべきであったが大器はもはや元の鞘(さや)に納まる事がなかった。この前後、国分寺総代が幾度か手紙に早く帰れと催促している書簡が残っている。

 

1913(大正2)年北原探道入寺、爾来60年住職として寺門興隆に努めた。京都では松永昇道が鼎(かなえ)について東寺に入り、1898(明治31)年教王護国寺執事、1904(明治37)年観智院住職、41年教王護国寺事務長、以来毎年宮中後七日御修法別当職に任じ、1923(大正12)年9月27日大僧正となり真言宗東寺派管長に就任、総本山教王護国寺住職となる。東寺の復興を計り、伽藍食堂の再建、講堂の修理の他、毎朝3時から5時まで日々御影堂(みえいどう)の行法を欠くことなく、毎月21日数十万の参詣者を集める盛況をもたらし、京都専門学校、東寺中学の校長を兼任して徳望一世に及んだ。

 

1942(昭和17)年12月1日午前10時一山大衆を率いて本山恒例大般若戦勝祈願法要の導師をつとめ、午後3時半機嫌よく本山を退出して自坊に帰り、手を洗い自室に入られるや突然卒倒、そのまま遷化されたという。享年77歳。明治初年、飛騨の貧乏寺から出て一代教界の王者に昇った法将も、清貧の師僧空広法印の温愛の情なくば育たなかったと確信する。その意味でも明治時代の飛騨の教界に去来した真言僧の動向に私は今更ながら畏敬の念を禁じ得ない。

大僧正とは

僧綱の一つ。中国で創始され,日本では624(推古32)年に初めてこの制度が用いられた。のちになって僧正に大・正・権の3種の階級が使われるようになり、大僧正はそのうちの最高位。現在でも各宗派の僧侶の最高位の名称となっている。

食堂(じきどう)京都市東寺

僧侶が斎時に集って食事をした場所で創建年代は未詳。平安時代、理源大師・聖宝により6mの千手観音像(現在宝物館安置)と四天王像を造立。千手堂とも呼ばれ、足利尊氏は東寺に本陣を置き、この食堂に居住していた。1930(昭和5)年12月21日焼失、1933(昭和8)年竣工。春日厨子に納まった十一面観音像は明珍恒男の作である。

飛騨一日一話 八野忠次郎著 P.292より引用

国分寺三重塔の由来 1615(元和元)年


天平の昔(741)、聖武天皇の詔勅で建立された飛騨国分寺の諸堂宇は、819(弘仁10)年の災害で消滅したと伝えられたまま、平安から中世の間にどんな形で復興されたかについては、何も伝わっていない。天平創建を偲ぶものとして現存するものは、塔心柱礎石(国重文)と、境内から出土する布目瓦や、赤保木町の国分寺瓦窯跡(国重文)などだけである。


田中大秀の松亭記には「国分寺五重塔は金森法印が松倉を攻められし時、焼かれしといい伝えたり、その後、薬師堂(現本堂)は川上郷山田村にありしを移してここに建つ」とある。金森長近が焼き払ったという五重塔は元和元年ころ、金森2代の可重が発願して、大工棟梁中井甚左衛門の手で、金森家後藤重兵衛が奉行として完成した五重塔であった。国分寺蔵古図、飛騨一之宮蔵国分寺絵図によると、現本堂と塔は東西にだいたい並列して建てられていて廊下で本堂とつながっており、塔心礎は、天平創建のものがそのまま使われていたようである。

飛騨国分寺三重塔

元和再建の五重塔は177年後の1791年(寛政3)年8月20日の台風で倒壊するが、その時の台風はよほどすごかった模様で、塔心礎ぐるみ横転したらしく直径2m余の大石が横転したままあったのを、1922(大正11)年ごろ現状に復し移動している。位置が現在の地に変わり、五重が三重塔になって、天高くそびえる九輪は、元和再建のものを鋳直して使用したものと伝えられる。
台風で倒壊して31年後、現存する三重塔が竣工したのは1821(文政4)年であった。

参考文献

『清見村史』清見村/『高山市史』高山市/『高山の歴史』高山市郷土館(高山市)/『飛騨高山明治・大正・昭和史』飛騨高山天領三百年記念事業推進協議会(同左)/『近世飛騨の木匠について(7)』笠原烏丸(飛騨春秋)/『飛騨匠』飛騨建設工業倶楽部(同左)/『「飛騨の匠』第一物産株式会社(同左)/『飛騨高山祭』山本茂実(朝日新聞社)/『高山祭屋台雑考』長倉三郎(慶友社)/『美濃・飛騨の建築』岐阜県建築士会(同左)/『東海の近代建築』羅本建築学会東海支部歴史意匠委員会(中日新聞社)/『総覧日本の建築(5)』日本建築学会(新建築社)/以上は『技・巧・人阪下甚吉』編集発行阪下ゆかり平成68月の参考文献および『高山の近代建築』高山市教育委員会文化財保護課発行平成143月上記2冊より引用

 

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