飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI

左甚五郎

上野寛永寺「水飲みの龍」

数ある左甚五郎(註1)伝説より「水飲みの龍」のお話。三代将軍家光公のとき、「上野東叡山寛永寺に鐘楼を建立せよ、ついては鐘楼四隅の柱にそれぞれ昇り龍を彫れ」と命が下った。4人目の彫師を引き受けたが困り果てた甚五郎、なにしろ見たことが無いから彫りようが無い。不忍池の弁財天に願をかけると満願の日、池面波立ち一頭の龍が天をめがけて舞い上がる。それを目に焼き付けた甚五郎、ついに仕事に取り掛かった。
だがその龍は頭がおでこで不恰好、他の三人の精緻な造りにはまるで及ばない。それでも当の甚五郎は「これはもう無類の上出来」と言うので、物は試しと柱高くに絡み付けてみた。するとこまかく彫り上げた三人の彫師の龍が良く分からないのに比べ、甚五郎のは遠目に見ると真に昇り龍というのはこのくらいな勢いであろうと思われる迫真の出来で、家光公はじめ一同「龍が生きておるような…」と感嘆しきり。ところがこれが現実となる。

毎夜水を飲みに出る龍

小僧がある夜、鐘楼の下から西の柱へ絡み付こうとする大蛇にびっくり、また翌晩には不忍池で水を飲んでいる。皆が駆けつけると、甚五郎の彫った龍からびっしょり水が滴っていた。将軍様は「不思議なことが有るもの」と入神の技量に感心され、しかし毎夜諸人を驚かせては迷惑であろうと龍の足止めを申し付けた。甚五郎が龍の頭へクサビを打込むと、その夜から龍は水を飲みに出なくなったと云う。現在は寛永寺鐘楼に龍はおらず、お隣の上野東照宮唐門に、左甚五郎作水飲みの龍を見ることができる

※(註1)左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。講談や浪曲、落語等で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。(Wikipediaより)


上野東照宮唐門の左甚五郎作の龍一対のうちの昇り龍、偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれている。

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