飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
飛騨の古代寺院
「寿楽寺廃寺」は行心(こうじん)が配流された寺
古川国府盆地では、北から順に、杉崎廃寺跡、寿楽寺廃寺跡、沢廃寺跡、古町廃寺跡、上町廃寺跡、塔ノ腰廃寺跡、名張廃寺跡、堂前廃寺跡、安国寺跡、石橋廃寺跡、光寿庵跡の11カ寺が知られる。飛鳥時代後半の古代寺院が高山盆地に比べて多く、飛鳥時代の飛騨の中心は荒城郡であったことがわかる。飛鳥時代から本格的な仏教寺院が飛騨にあったということは、都の寺院建築の建築技術をすでに保有していたことを示す。
『日本書紀』686(朱鳥・しゅちょう 元)年の記事に、大津皇子の謀反事件に関与したとして、新羅の僧・行心(こうじん)が死罪を免じられ、飛騨国伽藍へ流されたとある。行心は686年に飛騨国の寺院に流されたのだが、このときにはすでに飛騨国に寺院が建てられていたのである。
大津皇子は天武天皇の第3皇子で、文武に優れた人物であった。異母兄弟の草壁皇子が皇太子であるのに対し、大津皇子は太政大臣となり、政治的野望を持つ者が大津皇子の下に集まった。天武天皇の死後、大津皇子は謀反の疑いで捕えられて自害している。
行心が流された飛騨国伽藍は寿楽寺廃寺で、行心は子隆観を伴って配流された。16年経って免罪されて隆観は都へ戻ったが、行心の生死については明らかではない。
寿楽寺跡地は道路改良に伴い、岐阜県文化財保護センターが1998〜2000(平成10~12)、2003(平成15)年度の4次にわたり発掘。結果、講堂基壇跡と回廊遺構が発見された。また回廊西に接して礎石建物跡、さらに西には竪穴建物跡群も確認された。礎石建物は僧坊、竪穴建物群は周辺集落と推定された。なお、伽藍中枢部は現在寿楽寺本堂の建っている場所と考えられ、本堂背後には地表面が盛り上がる区画があって、金堂と塔跡の可能性がある。
硯(すずり)、鴟尾(しび)、瓦類が出土したが、「高家寺」(たかや)の墨書がある須恵器は寺の名称がわかり、寺院と深く関わる遺物として注目されている。瓦では飛鳥時代の瓦7種が出土し、尾張元興寺跡で出土している単弁六葉忍冬蓮華文軒丸瓦と簾状押引四重弧文軒平瓦がセットで出土し、行心との関係がある朝鮮系の瓦文様として特筆される。
飛鳥時代の古代寺院「杉崎廃寺跡」
遺跡は飛騨市古川町杉崎に所在し、古川国府盆地北西隅の宮川右岸微高地にある。土地改良工事に伴い、1991〜95年に中枢部の発掘調査が実施された。伽藍中枢部の北側に掘立柱建物跡を持つ僧坊域、さらにその東側に雑舎群を確認し、寺院全域の様相が判明するという、貴重な古代寺院発掘成果となった。
伽藍中枢部では、八脚門である中門跡、三間四面の形式を持つ金堂跡、約4.2m四方の小規模な塔跡、4間の両庇付建物である講堂跡、楼形式でない可能性がある鐘楼跡により構成される。
配置は、中門跡、金堂跡、講堂跡が一直線に並び、金堂跡の東側に塔跡が隣接する法起寺式の伽藍配置である。伽藍中枢部全域において礫敷きが施され、荘厳な空間である。伽藍中枢部北側では、総柱式掘立柱建物跡11棟が確認され、僧坊建物と考えられている。
遺物は、須恵器の坏・碗類とともに、寺院に関わる器種が出土している。墨書土器も多数出土しているが、「見寺」と記載のある須恵器が数点出土し、寺名が明らかとなっている。また「符 飽□」と記載のある木簡が出土し、『和名抄』に記載のある「荒城郡飽見郷」の比定地ともなっている。
屋根材料としては、丸瓦・平瓦・熨斗瓦等の瓦類と共に、檜皮(ひわだ)が出土している。瓦の数量が少ないため、棟以外は檜皮葺きであったと推定されている。出土遺物、特に須恵器の年代観から、7世紀末から8世紀初頭に創建され、9世紀初頭には焼失したものと考えられる。杉崎廃寺跡は、飛騨で唯一伽藍中枢部全域が調査された重要な古代寺院遺跡である。
奈良時代の古代寺院「飛騨国分寺跡」
JR高山駅の東方250mに所在し、創建時から現在まで法灯を保っている。室町時代創建の現存する本堂は5間×4間で、1967(昭和42)年に国の重要文化財に指定された。また境内地内の塔心礎は国の史跡に、大イチョウは国の天然記念物に指定され、本堂に安置されている平安時代の木造薬師如来像・観世音菩薩像も国の重要文化財に指定されている。
本堂の解体修理や防災施設等の工事に伴い、1952(昭和27)年以降、4次にわたり境内地の発掘調査が行なわれた。
その結果、現在の本堂下に原位置を保つ5個の礎石と11カ所の根石などを確認し、4間×7間の礎石建物の存在が判明した。柱間寸法は桁行中央3間が14尺、両脇が12尺、庇は11尺であり、梁行は身舎2間が12尺、庇は11尺である。1952〜54(昭和27~29)年の調査当時は建物跡の性格は不明とされていたが、1988(昭和63)年に調査された国分尼寺跡金堂と建物規模・柱間寸法が類似するため、金堂跡と推定されるに至った。
また、1997(平成9)年に本堂東側で版築の痕跡を確認し、金堂基壇に伴う版築と考えられた。周辺一帯では、現地表下1.2mほどで瓦が出土する層を確認している。その下面が奈良時代の生活面と考えられており、金堂礎石との比高差約1mが基壇の高さであろう。
遺物は瓦・須恵器等を確認している。軒瓦は、軒丸瓦2種・軒平瓦4種が確認され、すべて国史跡の赤保木瓦窯跡(高山市赤保木町)で焼成したことがわかっている。
奈良時代の古代寺院「飛騨国分尼寺跡」
飛騨国分寺より西に770m進んだ位置にあり、JR高山駅西方の市街地に所在する。現在は、辻ヶ森三社の境内地となっている。宮川の支流・苔(すのり)川に面した沖積世の微高地上に立地する。
大正年間(1912~1926年)、押上森蔵が辻ヶ森三社社殿下に礎石を発見し、飛騨国分尼寺跡と推定されるようになった。
その後、社殿の改築や保育園移転など周辺建物工事に伴い、1988(昭和63)年以降5次にわたり発掘調査を行ない、金堂を確認した。発掘調査により、桁行7間×梁間4間の建物と判明した。基壇の版築も確認され、全体に深さ70㎝ほどの掘り込み地業を行ない、高さは残りの良い基壇東側から1.2mと推定される乱石積み基壇である。
基壇の南側は15〜20㎝大の川原石と山石とで敷石を施し、また、金堂の北側では、講堂建設の際に基準とした溝遺構・雨落ち溝、整地土を確認した。
遺物は、奈良時代から平安時代にかけての須恵器・灰釉陶器と瓦が出土した。軒瓦は、飛騨国分寺跡と同笵の軒丸瓦が採集されているが、この国分尼寺で使われていたものとは断定できない。なお、発掘調査では軒丸瓦、軒平瓦は確認していない。瓦類では、丸瓦、平瓦片のほか鬼瓦片が出土しているが基壇内部に包含されていた可能性があり、尼寺創建以前の寺院のものと推定している。前身寺院があったのかもしれない。
1888(明治21)年の字絵図調査によって、国分尼寺跡の寺域は小字「辻ヶ森」と「森下」の方約1町の範囲であること、国分寺と国分尼寺を包含する小字境を結ぶラインが条里の痕跡であることが推定された。条里、国分寺、国分尼寺が揃ったことにより、奈良時代の国府政庁は高山盆地にあると確認されている。