飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI

東京美術学校工芸技術講習所が高山にあった 続編2

『帝国工芸』第118号  1937(昭和12)7月  中田満雄記

<東京美術学校を飛騨高山につないだ中田満雄氏が春慶塗を語る>

<飛騨春慶の紹介>

 最近岐阜と富山を飛騨縦貫鉄道の全通によって『飛騨』という言葉が、色々な魅力を発するようになってきて観光的にも四季を通じて遊人の足が繁く、飛騨自身もいまだ黎明期ではあるが恭しき産業的発展の将来が仄へている。

 元来飛騨という所は、大工、指物等の技術的に恵まれた伝統を持つ国で、京都のご造営には飛騨からの工人がなくてはならないものとされていた程である。その豊富な木材の産出は将来の木材工芸に輝しき発達を約束するものであって、岐阜県では飛騨の中心高山市に木材工芸指導所を設立する期運にあるのもそれを裏書きするものであろう。

 ここに紹介せんとする春慶塗も飛騨の特産として長き歴史の上に立つもので、現在においては年産額は物産の上位にありその素材を生かした塗のデリケートな優美さは嘖嘖たる名声を得ているものである。口伝によれば慶長年間高山城主金森長近の御用塗師成田三右衛門義賢によりためされたる塗法を初めとされるものの由であるが、現在各地に産出されている春慶の内、その塗上げの巧妙さ高尚さにおいては恐らく飛騨の右に出ずるものがないであろう。土地の業者はそれを誇りとして春慶の如き埃を忌む所の塗にあっては飛騨のような空気の澄んだ山間の地でないと駄目だと自負している。

 元来この春慶というものは他の漆器と比して素地を被覆することなく漆を通して木材の美しさが感じられる所に特徴があるもので、その点他の漆器のごとく下地とか研ぎとか艶出し等とかの手数がはぶけるかわりに塗上げに特別の注意を必要とされるものである。

 簡単にその製法について一言すれば、先ず木地(檜が一番塗上げてから効果があるが、最近では、ほう、もみじ、その他色々な木材を用いている)をペーパー仕上げによってすべらかくし黄及び赤等の色素中に入れて色着をする。黄色に着色されたものを黄春慶、赤い着色を紅春慶と呼び後者は比較的に新しい時代のものである。その他緑を着色したもの等があるが、やはり漆を塗ってそのあめ色が被ふ事になるからあめ色に害されない黄とか赤とが最上のものである。

 その着色をした木地に一定の厚さを持たすために豆しる(最近ではカゼイン等が用いられる)の中に入れる。そしてその上に漆を塗るものであるが一度漆を塗ったのみで一定の光沢と、また塗の堅牢さを必要とするために特別に用意された漆でなければならない。以上大体においてその出来上がりまでの工程を記したのであるが、現在この春慶の製作がためされている組織は高山市における製造所は四つ五つあるが重に家内工芸的な製造状態である前期のごとき潔癖な製造方法とその小規模な生産のために需要に応じきれない有様の由である。将来もっと何らかの生産高を増すに都合のいい施設でも出来その発展を希うものである。なお最後に業者に一言したきは立派な伝統を持っておられることはたしかに業者諸君の誇ではあるが、決してその伝統の中に安住してはならないということだ。すなわち時代がいかなる工芸を要求しているかという点に常に意を用い古き伝統を生かした新しき工芸を生産すべきである。その一例としては現在製作されている品物以外に春慶塗の応用範囲を考えるとか、前からあつかいなれた木地はすでに二十年三十年の昔の型であるから思い切って新型のみのを作って見るとか、あるいは輸出向の品を考えるとか、常に研究向上の心に燃えて古き伝統の上に立ってこそ輝かしい将来が約束されるもので、伝統に安住して伝統と共に滅びてしまった例は、すでにいくらでもあることである。

 

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