飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
祭屋台立川流
高山祭屋台の彫刻と立川流彫刻
日本三美大祭と言われる飛騨高山祭は、豪華絢爛な祭屋台で有名である。飛騨の匠が活躍した地で大工、彫刻、彫金、漆塗り等の匠の技術が凝縮され見る者を圧倒する。
天領である飛騨でも祭屋台が作られるようになったが、高山祭屋台の祖型は、神田明神祭の江戸型と言われる屋台であり、江戸文化の影響を受けている。神田明神祭の大工町の山車に「飛騨匠の人形」が飾られていたことが興味深い。
江戸時代後期には、立川一門が幕末の左甚五郎とうたわれ、全国から注文を受け一世を風靡していた。寺社建築の宮大工と彫刻の宮彫りの双方を極め、素木の見事な彫刻は極彩色の彫刻にも迫る美術的鑑賞に耐えるものである。出身地の諏訪大社や徳川家康の浅間神社の再建や彫刻に代表的な実績を見ることができる。
高山の祭屋台も初めは人形を飾っていたが、江戸時代後期には素晴らしい彫刻を飾るようになった。高山の屋台組では、五台山が初めて一流の彫刻を施そうと立川流に発注し、諏訪の和四郎二代冨昌の作による素木の彫刻「飛獅子」を屋台に施した。
その時、若き彫刻師・谷口与鹿は五台山の彩色彫刻を制作していたが、立川流の素木彫刻を目の当たりにし大きな影響を受けたと言われる。谷口与鹿は10代の若さで天賦の才能を開花させ次々と見事な素木彫刻を制作し大活躍をした。五台山の後、高山祭屋台の彫刻は、谷口与鹿ら地元の彫刻師が多数の逸品を制作し現在の高山祭屋台を際立たせている。2016(平成28)年、高山祭の屋台はユネスコの無形文化遺産に登録された。
屋台の原型(神田明神)に飛騨の匠人形が
高山祭屋台の祖型は江戸型である。江戸の山車と言えば神田明神祭で、祭の様子は、歌川国郷「神田大明神御祭礼図」(東京都江戸東京博物館蔵)からうかがえる。祭礼の行列は神田祭と山王祭が隔年交代で江戸城に入り、徳川将軍が上覧し「天下祭」といわれた。神田祭礼行列は二基の御輿と三十六番まである山車である。各町内から独特の飾り付けの山車が引き出され江戸城に入り、時の将軍も見て楽しんだ。興味深いことに江戸幕府御用達の大工が住む町である竪大工町の二十一番山車には「飛騨匠棟上人形」が飾られていた。江戸幕府の御用達大工たちが山車の人形としてふさわしいと認めていたのである。
飛騨の匠が江戸の一流の大工町の象徴として位置付けられていた。
神田明神による山車の解説には、「飛騨匠は、飛鳥・奈良・平安時代に平城京や東大寺を造営し、功績を残しその後も5万人もの匠を都へ送り出し、腕を磨いた匠達が飛騨に戻って素晴らしい生活様式と伝統工芸をもたらした」とうたっている。(神田明神販売所の販売品の神田祭山車づくし 二十一番山車 「飛騨匠」の解説より引用)
その後、山車は幕府の倹約令のため廃止となり、神田明神は神輿が中心になった。しかし高山では祭屋台は残り続け独自の形に発展し現在に至っている。
彫刻が取り付けられる前後の高山祭屋台
高山の屋台に、初めて本格的な獅子などの彫刻がほどこされた屋台が五台山である。「絢爛豪華な高山祭屋台彫刻の開花は、五台山に始まる」と言われている。五台山の彫刻制作には、幕末の左甚五郎とうたわれた諏訪の立川和四郎二代冨昌(満55歳)が「飛び獅子」を、地元 高山の若き谷口与鹿(15歳)が極彩色の牡丹を彫った。
屋台には、それぞれのテーマがあり、邯鄲とは、中国の説話の人名である。田舎から来た邯鄲が町で粟が煮えている様子を眺めているうちに眠りに落ち、大出世をするという夢を見るが人生ははかないという説話であり、この邯鄲が「五台山」の屋台の人形であった。その後からくり人形を取付け「蘆生(ろせい)」と呼ばれた時期を経て現在に至っている。
飛騨高山の谷口与鹿
谷口与鹿は、谷口大工の家に生まれ、大工としての修業を積みながら中川吉兵衛(なかがわきちべえ)に彩色の彫刻を習い腕が良いのを見込まれ、五台山の極彩色の牡丹彫刻を命じられたといわれている。
15歳の与鹿は、55歳の名工、和四郎の素木(しらき)彫刻の、木目を活かす素晴らしい彫りに大きな感動と深い感銘を覚えたと言われる。その後諏訪の和四郎に弟子入りしたのかどうか確たる事は分かっていないが、与鹿は飛騨で良い意味で言われる「仕事を盗め」を実践したもので天賦の才能を発揮したとも考えられる。与鹿のほとんどの作品は素木(しらき)彫刻である。
与鹿16歳前後の彫刻師としてのデビュー作は、琴高台「波間に泳ぐ鯉」で天保の大改修(1836〜1838)の時に施された。檜材に漆と金箔。波はケヤキの白木、岩は彩色。画家・前田青邨が、高山祭屋台の中で一番良いと激賞した作品である。
麒麟台「籠伏せの鶏」 | 一本のケヤキ材で制作。麒麟台では、唐子、龍など多数のテーマを手がけている。 |
---|---|
恵比須台「龍・子連れ龍」 | 龍の彫刻の傑作といわれる。 |
鳳凰台「谷越え獅子」34歳 | 7尺のケヤキ材を使用し高山祭屋台の最大の大きさ。与鹿の指導を得て、浅井一之が彫った。 |
高山祭屋台彫刻は、五台山の制作以降は谷口与鹿や谷口一門の手によるものが多い。
一方、愛知県半田亀崎でも、五台山と同じ年1837(天保8)に立川和四郎の彫刻を山車に取り付けた。その後、半田の屋台組は競うように和四郎に依頼し、現在、半田の山車は31基あるが、そのうち9基が和四郎の彫刻を取り付けている。その種類も鶏、力人、三国志、仙人など実に多数である。
高山では、天才・谷口与鹿らが見事に彫刻の飾り付けを成し遂げていて、和四郎の彫刻は最初の五台山のみである。匠の地・高山ならでの「飛騨の匠の技と心」が光るといえる。
さて、与鹿が感化を受けた諏訪の立川和四郎とはどんな人物なのか。次に述べたい。
立川流とは
江戸の立川流は江戸後期に活躍した。日光東照宮造営後、江戸に残った彫刻師が大隅流から分派した。棟梁は立川小兵衛富房(たてかわこへえとみふさ)で江戸本所の立川通りで居を構え立川と名乗った。その後発展し幕府御用となった。富房は立川の流儀、描き方、名前を記した教科書ともなる規矩術書や彫刻の見本帳を著している。
諏訪の立川和四郎とは
諏訪の和四郎初代は、江戸の立川富房に師事しその類いまれな実力で立川姓を許された。宮大工と宮彫りの両方を極め、諏訪においてその実力を発揮した。さらに第2代冨昌が彫刻を発展させ、一門の実績は本家の立川をしのぎその名は全国にとどろき、ついには幕府御用となる。立川というと「諏訪の立川流」を指すようになった。
初代 立川和四郎冨棟
初代立川和四郎(冨棟)は1744(延享元)年、諏訪で桶職の子として誕生し、数えの13歳で江戸に出て宮大工立川小兵衛富房の弟子となった。満19歳、修業中、見事な腕を見込まれ、師匠から立川を譲る(娘を嫁にくれる)とまで言われたが断り諏訪に帰った。そして江戸の立川流の師より「立川」姓を許され、「冨」をもらい冨棟と名乗る。師匠の「富」の字を「冨」に替えたのは師への配慮であろうか、人情味が感じられる。以後、諏訪の立川流は「冨」の文字が使われている。
満22歳、宮大工の建築だけでは力不足と、再び江戸に出て小沢常足について宮彫りを学ぶ。満24歳、再び諏訪に帰り、建築と彫刻の両方ができる建築請負業を始める。満30歳、白岩観音堂(長野県茅野市)で名を馳せ、宮大工と宮彫りの両方を極めた和四郎は、棟梁として見事な仕事が認められて評判になった。
そして、中山道と甲州街道が合流する地である高嶋藩の領主 諏訪氏から、立川冨棟は下諏訪宿の諏訪大社秋宮幣拝殿再建棟梁に抜擢された。その半年後、諏訪大社秋宮幣拝殿再建棟梁に諏訪の宮大工・村田長左衛門が名乗り出て共に技を競い合ったとされ、この一派は後に立川流と区別して大隅流とも呼ばれた。この時、立川冨棟は写実性に富み心に訴える彫刻や建築で高い評価を得て一躍時の人となっていった。
立川流は建築と建築彫刻、屋台彫刻で幅広い地域に実績を残し、建築と彫刻の両方を極めた名工として幕末の甚五郎と謳われた。
第2代 立川和四郎冨昌
高山祭屋台・五台山の彫刻を彫ったのが、立川流第2代 冨昌である。冨昌は天性の美的感覚と芸術性で、初代の伝統的な獅子、龍、唐子などのテーマを大きく広げ鳥や植物などを彫刻の対象物とした。彩色彫刻と比べ経費がかからず、素木を巧みに彫り、木目を生かし彩色彫刻にも劣らない表現を確立した。2代目冨昌は、建築とともに宮彫りで立川流を大発展させた立役者で、一般大衆からの支持も受け、冨昌の名は全国に知れ渡った。
1837(天保8)年、高山屋台・五台山の彫刻を彫り、同じ年に、愛知県半田市亀崎の山車に彫刻を初めて納めている。その後も各地に多くの彫刻を納めている。好んで動物の親子をモチーフとしたと伝えられている。
五台山の飛び獅子も親子である。静岡浅間神社の再建では約40年間にわたり、立川初代、2代、そして3代目和四郎冨重へと受け継ぎ、第2代冨昌の娘婿常蔵昌敬や弟子など一門上げて取り組んだ。寛政の改革で有名な松平定信から「内匠」(たくみ)の称号が与えられ、幕府御用ともなる。しかし明治時代に寺社建築の減少により、立川流の宮大工や宮彫りの仕事はなくなっていった。その後は、立川義明が立川の血筋の彫刻家として木彫からブロンズへと芸術活動を行ってきた。
家康の静岡浅間神社(せんげんじんじゃ)(東海の東照宮)立川流の活躍
家康以降の浅間神社(東海の東照宮)の造営の歴史によると、戦国武将・家康は敵城攻めのため、再建を誓い浅間神社を焼き払っている。その後、家康や時の幕府に再建されるが2回の大火で消失。徳川幕府が再び造営を行い、立川流は40年間に渡り彫刻制作に活躍した。
家康以降の浅間神社(東海の東照宮)造営の歴史
- 家康が582(天正10)年 武田家攻略に再建を誓い浅間神社を焼き払う。その後慶長年間(1596~1615)に造営。
- 家康が上洛の折、社殿の修復を命じ、幕府御用の日光東照宮を手掛けた棟梁が携わる。
- リスト3テキスト
- その寄進の137年後、1773(安永2)年 大火。
- その大火の15年後、1788(天明8)年 2回目の大火で灰に帰す。
- その大火の16年後、1804(文化元年)幕府の大造営で再建が始まる。その後60年余の歳月をかけて造営が続き、10万両を投じた。
- 1865(慶応元)年 再建が完了。彫刻は立川一門が40年間にわたり携わり、寛政の改革・松平定信は、2代目立川和四郎冨昌に「内匠」の称号を与えている。
- 20年かけての平成の大改修(途中 令和となる)。静岡浅間神社では、「極彩色の絢爛豪華な彫刻」の美と、和四郎の真骨頂である「素木の彫刻」のわびさびの美とが、混在している作品群に触れることができる。
高山祭屋台の素木と極彩色彫刻
様々な時代背景を受けた高山祭屋台は、伝統的な彩色彫刻を施した屋台彫刻を基本にして、諏訪の立川流の影響を受けた谷口与鹿が、素木彫刻にその才能と腕前を発揮したことにより彩色と素木の両方の彫刻が鑑賞できる素晴らしい屋台となっている。むしろ彩色にも劣らない素木の表現力と迫力で与鹿の彫刻がメインとなって屋台を引き立てているといえるだろう。
動く陽名門といわれる豪華絢爛な高山祭屋台であるが、東海の東照宮とうたわれた家康の静岡浅間神社に見られるような、豪華絢爛な装飾美と素木彫刻のわびさびの美が、一体となった美しさを見事に表現しているともいえよう。そして大工、漆塗、錺金具(かざりかなぐ)、鍛冶などの職人技の総合により、美術的、工芸的にも素晴らしく造られていることは他に類を見ないものである。
さらには、上方(関西)のからくり人形を取り入れつつも、からくりを後ろから操作する方法や、屋台の方向転換に「戻し車」の装着などを独自に考案し、江戸型といわれる祖型の屋台を大きく発展させている。 まさに、1300年以上前から古の都造りに活躍した「飛騨の匠」の心意気が伝わる、飛騨の地でこそ成し得た事と考えられよう。
ユネスコの無形文化遺産登録
山・鉾・屋台行事(やま・ほこ・やたいぎょうじ)は、山・鉾・屋台等と呼ばれる山車が巡行する日本の祭33件からなる国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産として2016(平成28)年12月1日(日本時間)に登録が決定した。
この無形文化遺産は、2006(平成18)年に世界178ヶ国が条約を締結して成立していて、当初は能楽、人形浄瑠璃文楽、歌舞伎が登録されていた。2009(平成21)年からは類似したものをまとめるようになり、2016(平成28)年には、山・鉾・屋台行事が33件の多数をもって登録された。
登録前には「京都祇園祭」と「日立風流物」がすでに登録されていたのだが、この2件を含めて33件としたのである。
日本遺産「飛騨の匠」登録
2016(平成28)年4月には、日本遺産「飛騨の匠の技・こころ−木とともに 今に引き継ぐ 1300年」が文化庁から認定された。
飛騨匠の技の特徴
飛騨の匠の技とは、木の素性を見抜く目利きの鋭さと、適材適所に木を生かす正確な加工技術である。その技は木がもつ本来の美しさを創り出すのが特徴である。豊富な樹種に恵まれた飛騨の森林は、木々を生かす匠の技を育み、飛騨は木造り文化の気質と歴史で満ちている。
全国に知られた飛騨の匠とは
「飛騨工(ひだのたくみ)制度」は、奈良時代、飛騨に対して税を免除してまでも木工技術者を都へ送ることを定めた全国唯一の制度である。平安時代末期までの400〜500年にわたり、山々に抱かれた奥深い地から都という中央都市の造営に携わる歴史を生み出した。
飛騨の匠は、『万葉集』や『今昔物語集』をはじめ、多くの文学作品等にも実直な木工技術者として描写されてきた。飛騨の匠の実績と飛騨の匠伝説は、変遷を繰り返した古代の都はもとより全国で見ることができる。