飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
東京美術学校工芸技術講習所が高山にあった
戦中戦後にかけて、高山に工芸技術講習所があった。工芸技術講習所とは、東京美術学校工芸科の教員を中心とする有力者の働きかけによって設置された工芸の講習所である。1940(昭和15)年11月〜1948(昭和23)年4月 文部省直属、東京美術学校附属の講習所となる。
小池岩太郎先生(東京藝術大学教授をへて名誉教授となる)が1946(昭和21)年東京美術学校 夏季研究会の講師として上野直昭校長と高山に来たことがあったと、のちにご本人から直接聞いたことがきっかけに高山に東京美術学校の工芸技術講習所があったことを顕彰することになった。
工芸技術講習所の設立と高山出張講習教室
工芸に関する学術的および技術的研究と調査のため東京美術学校工芸科鋳金部教授津田信夫をはじめとする工芸界の有力者たちは、産業としての工芸、芸術としての工芸の両面を踏まえ、教育、研究機関として1940(昭和15)年「工芸技術講習所」を設置することになった。
1941(昭和16)年1月、東京美術学校内(現東京藝術大学)に開所され、翌1942(昭和17)年度の全生徒数が32名となり、岐阜県高山市において第1回出張講習教室を開くという大きな出来事となった。戦時色が次第に強まり、学校内での工房の新設もならず、実技教育の場に苦慮していた折り、同所教官で飛騨出身の中田満雄の斡旋により高山が講習の場に選ばれた。
これは「その土地伝統の特殊工芸について、その生産状態や技術を研究し、生徒の実技習得と共に心身練磨の収容をなす」ことを目的に行われたもので、当地が選ばれたことは、高山の伝統工芸が全国的にも認められていたことを示している。1942(昭和17)年度について藤本能道は、はじめ生徒として参加し、中田満雄、戸谷純之助、吉田丈夫、内藤四郎らが1ヶ月交代で出向いて監督にあたった。
城山二之丸跡(現照蓮寺)にあった保寿寺を宿舎として4月中旬より9月上旬まで、職員の監督のもとに初め一同が岐阜県木工指導所、渋草焼松山窯、渋草売店、戸田窯、田中松祐斎工場(千巻)、民家、飛騨木工株式会社などを見学し、松山窯で下絵付けや轆轤の練習をしたり、木工指導所で恩田道太郎技師(東京高等工業学校出身)の講義を聞いたり、やがて木工組(恩田技師指導)と渋草組(松山吉一指導)に分かれて実施講習を行った。工芸関係者座談会(5月13日、於保寿寺)、商工会主催工芸講演会(8月1日、於保寿寺)、製作品展覧会(9月4日、於信用組合)が開かれた。
これが予想以上の成果を挙げたため、以後1945(昭和20)年まで毎年春から夏にかけて約5ヶ月間実施されることになった。昭和19年より高山市に講習所の分教場設立を計画し、文部省に認可を申請した。成功の背景には中田満雄の並々ならぬ尽力があった。
1943(昭和18)年 第2回出張講習教室
保寿寺を宿舎として前回とほぼ同様に実施される。その間、中田満雄、藤本能道、津田信夫、加藤土師萌、森田武ら教官と白石太馬雄、筒崎謙斎ら事務員が高山へ出張。
出張講習教室協力者(昭和18年工芸技術講習所の礼状発送リストによる)
飛騨春慶漆器工業株式会社 | 高山市本町二丁目 広島 粂蔵 |
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岐阜県春慶漆器工業組合 | 高山市本町二丁目 松沢 義広 |
有限会社福田屋漆器店 | 高山市大新町 杉下貴代男 |
飛騨木工株式会社 | 高山市空町 白川政之助 |
芳国舎渋草窯 | 高山市二之町 松山 吉一 |
飛騨巧芸社 | 高山市 日下部 礼一 |
高山市役所産業課 | 辻ノ内 清 |
高山市役所産業課 | 商工会 前田 光二郎 |
大政翼賛会文化部飛騨支部長 | 高山市七日町 江馬 修 |
岐阜県庁商工課長 | 川島 好雄 |
岐阜県立工芸指導所長 | 井口 三郎 |
岐阜県工芸指導所内 | 代情 季三 |
高山市七日町 | 中舎(金?)廣丸 |
高山市上一之町 | 中村 満雄 |
岐阜県工芸指導所内 | 大坪 利男 |
岐阜県工芸指導所内 | 白木 晃 |
岐阜県工芸指導所内 | 岩島 周一 |
高山市城山保寿寺内 | 前畑 幸太郎 |
(小説「山の民」原作者の江馬修の名前があるのが興味深い)
1944(昭和19)年 第3回出張講習教室
5月1日から9月末日にかけて実施される。宿舎は辻ケ森神社境内の木造平屋建て1棟(8畳、6畳各2間。貸渡人北村長之助)。
1945(昭和20)年3月、決戦下、諸学校1年間授業停止(東京美術学校は10月1日再開)第4回出張講習教室は文部省の指令に則して学徒勤労動員の意味で実施された。高山市役所が受け入れ先となり、宿舎は旧林家。当主であった房子氏は上一之町の永田家(現飛騨高山まちの博物館)の孫にあたり、芸術にも大変理解があって当時の高山市長 森彦兵衛の要請を受け、屋敷の3分の2を講習所のためにあてた。4月より房子氏は嘱託として勤務(林房子履歴書)。
また、この年戦局は日に日に悪化し、東京での教育活動に支障が生じたためむしろ高山を本拠地として講習所の活動を続けた。諸学校授業停止期間中も講習所の活動は続けられた。これが高山疎開と呼ばれている。
前年度、講習所教官の入れ代わりによって、上野直昭が東京美術学校 校長兼講習所 所長に、富本憲吉が主任格となっていたが、2人は宿舎の問題や講習所の食糧確保などに奔走したという、厳しい食糧事情の中、教官や学生は窮乏に耐えながらも芸術に精進する生活を行った。陶芸実習の渋草焼の窯が松山窯から戸田柳造窯に移ったのもちょうどこの頃である。
また、敗戦間近に迫った頃は高山でも毎日のように空襲警報が鳴り響き、そのため同所の荷物や関係の大切な品は一時丹生川の農家へ預けられたこともあった。
東京美術学校 夏季研究会
1945(昭和20)年12月頃 工芸技術講習所の高山出張教室は引き揚げ、1946(昭和21)年4月12日 富本憲吉が工芸技術講習所の難航を説き、この年の生徒募集を中止する。(『上野直昭日記』87頁)
昭和21年 東京美術学校の夏季研究会が7月から9月まで高山で開催される。宿舎は旧林家。(夏季研究会は工芸技術講習所の高山出張教室とは全く別のものであるが、工芸技術講習所の宿舎だった林家を利用)参加者は生徒50名を加藤顕清、川合清が特別指導を行い、引率教職員=上野直昭、西本順、西田正秋、寺田春弌、脇本楽之軒、小池岩太郎、日下喜一郎、小林義郎(事務官)らが高山へ出張。また、この時高山市の依頼により、寺と小学校を借りて日本画と図案の講演会なども開かれ、大勢の人々が聴講した。
小池岩太郎はこのとき講師として高山に来た。工芸技術講習所の宿舎でもあり、夏季研究会でも使われた林家が、1947(昭和22)年3月に宿舎を閉鎖した。
東京美術学校 現在の東京藝術大学の工芸技術講習所が高山にあったことは、地元の人にほとんど知られていないし忘れ去られているのは残念なことだ。しかしながら、戦時中にも関わらず単なる疎開としてだけではなく講師や生徒が高山に集結して、工芸技術講習所として優れた芸術家を育成することを目的として設立されたという事実は高山市の現代史において重要な意義がある。さらに講師・生徒諸氏と飛騨高山のものづくりに携わる人たちとの交流に伴い、地元における飛騨の匠の歴史と伝統文化・技術を見直し、新しい芸術的視点で創造するものづくりを新規に目指すことへの意義を認識させたことの影響力は高く評価をすることができる。
芳国舎 松山吉一の貢献
1945(昭和20)年8月、高山で終戦を迎えた富本憲吉は寒冷地での陶磁器の製作過程で陶土や磁土が凍って冬場の仕事ができなくなるため、渋草焼松山吉一から指導を受け、さまざまな保温方法の知恵を身に付け自らも製作試験・研究をするため冬が到来するまで1人で高山に残留した。松山吉一は講習所の生徒の指導に留まらず、多くの人間国宝を育成したことになる。
渋草焼について
1841(天保12)年、飛騨郡代豊田藤之進は瀬戸のろくろ師 戸田柳造その他を高山に呼び寄せ、飛騨国大野郡上岡本村渋草(高山市上岡本町)の地に窯を設け、同時期に加賀から絵付職人曾我竹山たちを招き、創業より1877(明治10)年頃までの約30有余年は、地元で磁器をつくることを目指して九谷焼の意匠を施し赤絵陶磁器を製作する。いわゆる飛騨九谷、飛騨赤絵と呼ばれ半官半民で製作していた。その後明治維新の時代の変化と戸田柳造が没して衰微していった。
この期間は正式には渋草焼という名称はなく、強いて言えば豊田焼、岡本焼、本山焼、高山焼などといわれ絞り切れなかった。明治維新直後、曾我竹山の長男曾我徳丸(高山生まれ)と松山惣兵衛の2人が日本の陶芸家10人に選ばれ、明治政府の要請で1873(明治6)年に開催されるウィーン万博出品作品づくりに東京上野に招聘された。ウィーン万博終了後、出品した陶芸家の有志が「瓢地園(ひょうちえん)」という会社を興し、それをベースに1904(明治37)年に日本陶器を設立し、現在の株式会社ノリタケの前身となる。芳国社の名称は山岡鉄舟が関係して勝海舟が命名したという記録がある。
次いで1878(明治11)年三輪源次郎を中心とした数人の者によって再建された芳国社は有田焼の手法を入れ、染付、白磁、青磁、鉄砂、南京・写等模倣陶磁器を作り、永年芳国社の発展に貢献した三輪源次郎が他界し、芳国社名が芳国舎と変わったのが 1910(明治43)年で、芳国舎渋草窯として染付南京写を中心とした作風も変わらず、特に絵付けの岡田松泉の弟子中垣芳泉が松山吉一の素地に絵付けをして多くの作品を残した。中垣芳泉の弟子吉川菊麿は昭和を代表する絵師で唐子や花鳥紋等の秀作が残されている。
松山吉一は研究熱心で、織部焼・青磁・鉄釉等の作品にも秀作があり、1928(昭和3)年に営業全般を継いで、今日の芳国舎を築き上げた功労者であり、松山文雄はその後の芳国舎の発展と陶芸業界に留まらず飛騨の伝統工芸とクラフト協会(現代工芸)の発展に寄与され、現在松山正和に引き継がれ旺盛な活動を継続している。
一方、芳国舎に社名変更をしたのちに、ろくろ師松山惣兵衛が戸田柳造を継承し《渋草柳造窯》を創設、長男鉄之助を戸田性に改め戸田柳造となり、染付、青磁、白磁、鉄砂など生活雑器を作った。鉄之助の息子5代目畑中宗兵衛の四男宗四郎が6代目を継いで現在に至る。
東京美術学校および工芸技術講習所 教授・講師陣
上野 直昭(うえのなおてる)
1944(昭和19)年より東京美術学校の校長兼工芸技術講習所の所長となる。高山へは出張講習や夏季研究会に訪れ、また富本憲吉と共に飛騨市庁や市役所に出向いて、宿舎の問題や講習所の食糧確保などに奔走した。
中田 満雄
1905(明治38)年12月24日生
1924(大正13)年3月 愛知県工業学校図案科卒業
1924(大正13)年4月 東京美術学校図案科入学 1931(昭和6)年3月 東京美術学校図案科卒業
工芸技術講習所講師として、1944(昭和19)年〜 1945(昭和20)年の間高山に滞在。
戦時色が次第に強まり、実技教育の場に苦慮していた折り、同所教官の中に飛騨出身の中田満雄がいた関係から高山が講習の場にえらばれたものと思われる。
「囲炉裏端サロン」のメンバーであり、だいたいこのサロンの主人公は富本の美術論美学観が、その中心であった。富本がテーマを出し、それをもとに藤本、内藤が応じ、またその折々来高した先生や時折生徒も加わり論壇が展開した。萩原町に誕生した中田満雄は、東京美術学校卒業後に1941(昭和16)年6月 工芸技術講習所 助手、1943(昭和18)年7月 工芸技術講習所 助教授を歴任、その後、1947(昭和22)年から3年間、益田高等学校(現在の益田清風高校)の教員として登壇、教員中に指導した生徒は、その後全国に活躍する工芸・芸術家へと栄進する。下呂で展覧会が開催された。中田は終戦をはさんで5年ばかり萩原に滞在したあと、東京に移住し、文化服装学院で教鞭をとり、晩年はよく花の絵の個展を開いたという。
加藤 土師萌(かとうはじめ)
1900(明治33)年〜1968(昭和43)年
愛知県瀬戸市に生まれる。本名一。画工見習いをしながら愛知県立窯業学校教諭日野厚に師事して陶芸を学ぶ。1920(大正9)年同学校の助手になり、やがて多治見市の岐阜県陶磁器試験場に勤務し、技師として陶芸技術を研究した。1937(昭和12)年パリ万国博覧会では大賞を受賞した。
1940(昭和15)年には職を辞して神奈川県横浜市日吉に築窯して作陶に専念する。1941(昭和16)年、東京美術学校内の工芸技術講習所嘱託講師に就任し、生徒の指導にあたった。講習所が高山において出張講習を行った時も、講師として高山を訪れている。1944(昭和19)年秋頃より、富本が新しく教授に就任し滞在した。
1955(昭和30)年東京藝術大学教授となり、同校の陶磁器講座を担当する一方、正倉院御物の調査に力を注ぎ、また日本工芸会の理事長を務めるなど多方面において活躍した。特に、上絵付黄地紅彩の技法を本格的に再現したことが有名で、1961(昭和36)年には色絵磁器の技術で重要無形文化財技術指定保持者(人間国宝)に認定された。1967(昭和42)年、新宮殿の大飾壺のご下命を受けたが、その大形金襴手色絵磁器は未完成のまま1968(昭和43)年に死去した。享年68歳。
藤本 能道(ふじもとよしみち)
1919(大正8)年〜1992(平成4)年
東京大久保に生まれる。1941(昭和16)年、東京美術学校工芸科図案部を卒業したのち、同校内にある文部省工芸技術講習所第1部に入所、加藤土師萌、富本憲吉に師事して陶芸の道に進む。1942(昭和17)年に講習所が高山へ疎開をかねて出張講習教室を行ったとき、能道は、はじめ生徒として、翌年からは助手として高山を訪れている。
講習所の助手を辞してからは京都に移り、1947(昭和22)年に結成された新匠美術工芸会に参加する。2年間鹿児島で窯業の指導にあたった後、出品する展覧会も走泥社、モダンアート協会へと変わり、現代陶芸の代表的作家として活躍した。
1973(昭和48)年青梅市梅郷に築窯する一方、東京藝術大学の教授として後進の指導にもあたり、1985(昭和60)年には同校の学長となっている。
1986(昭和61)年色絵磁器で重要無形文化財の保持者(人間国宝)に認定され、その後も個展を開くなど旺盛な活動を続けるが、1992(平成4)年病により死去。享年73歳。
富本 憲吉
奈良県生駒郡安堵町に生まれる。1904(明治37)年4月 東京美術学校図案科に入学、1908(明治41)年イギリスに留学、近代工芸の先駆的な作家ウィリアム・モリスの作品に触れ、インドでは回教徒の文化・芸術に接し、特に工芸品に強い興味を覚えた。
1911(明治44)年に帰国した憲吉は、東京でバーナード・リーチと知り合い、共に陶芸を志すようになる。1915(大正4)年安堵村の自宅の裏庭に本窯を築いてからは本格的に作陶の道へ進む。1927(昭和2)年、妻一枝の希望もあって、東京に移住した憲吉は、祖師谷に窯を築き、地方の伝統的な技法を研究し、製陶技術を高めていった。1935(昭和10)年には帝国美術院会員となり、白磁や染付のほかに多様な釉と技法を用いた作品を完成させていった。1944(昭和19)年東京美術学校の教授に就任し、次いで同校内にある工芸技術講習所の主事となった。翌年4月、空襲の激しくなった東京を離れ、飛騨高山へ講習所の生徒を連れて疎開した。高山では、地元渋草焼の窯を借りて授業と製作を続けた。 1945(昭和20)年8月、高山で終戦を迎え、生徒や他の教官は東京へ帰したが、富本1人寒冷地での焼物を研究するため高山に残った。陶磁器の製作過程で、陶土や磁土が凍ってだめになるため、高山の渋草焼では当然その保温方法にさまざまな知恵を身に付けていた。自らも製作試験をするため冬が到来するまで高山に残留した。後に富本は「飛騨・高山で10カ月間、俗世間を忘れて清潔な孤独と、青年のごとき純粋さを味わった貴重な期間でもあった」と、高山の回想を締めくくっている。
戦後、美術院会員及び教授の座を辞して郷里に帰り、1947(昭和22)年国画会を退いて新たに同士とともに新匠美術工芸会を結成した。京都に移った憲吉は1950(昭和25)年京都市立美術大学教授に就任、多忙な製作の時間を割いて後進の指導にあたった。 1955(昭和30)年色絵磁器の重要文化財技術指定保持者(人間国宝)に認定され、1961(昭和36)年には文化勲章を受章した。1963(昭和38)年肺がんのため死去。享年77歳。
小池 岩太郎
東京芸術大学名誉教授で、日本のインダストリアル・デザインの草分けとして知られ、1913(大正2)年、東京芝に生まれる。1930(昭和5)年、東京美術学校図案科に入学。1942(昭和17)年 母校東京美術学校工芸科図案部の嘱託講師となり、1949(昭和24)年5月 東京藝術大学美術学部工芸科 助教授となった。1953(昭和28)年GKデザイングループ発足にかかわる。1965(昭和40)年5月東京藝術大学美術学部工芸科 教授、1967(昭和42)年伊勢丹ID研究所設立に携わり後進の鈴木庄吾と大川允を投入、日進木工㈱3代目社長北村斉が伊勢丹研修時代に指導を受ける。1979(昭和54)年同美術学部長となり、1980(昭和55)年退官して同名誉教授となった。1991(平成3)年には通産大臣よりデザイン功労者として表彰された。日本酒「大関」の揺れるボトル等、家庭用品を中心にデザインする一方、日本のインダストリアル・デザインの振興に寄与した。
1946(昭和21)年東京美術学校の講師として上野直昭校長と高山に来たことがあると、後にご本人から聞いたことがきっかけとなり高山に工芸技術講習所があったことを顕彰することになった。
松村 勝男
昭和17年4月 工芸技術講習所第2部 入所
昭和19年3月 工芸技術講習所 終了
工芸技術講習所の生徒として受講していた。建築家吉村順三に師事、1957(昭和32)年松村勝男デザイン室を設立、清家清、増沢洵らとともに住宅や新宿風月堂の家具を担当。1968(昭和43)年イタリアの家具展「エウロ・トムス」出品。1972(昭和47)年個展「松村勝男の木の世界」でカラマツ家具シリーズを発表。 1975(昭和50)年には聖マーガレット協会の家具を手がける。飛騨の家具メーカー日進木工や産地にデザイン振興に関する影響を与えた。
洋画家安井曽太郎と梅原龍三郎がサマースクールの講師として高山に来ている事実を見逃すことはできない。2人とも東京美術学校助教授のときだった。
引用・参考・文献
東京芸術大学百年史東京美術学校編 第3巻
平成8年開催:人間国宝 戦時中のやきもの展のキャプション
田中彰氏提供 工芸技術講習所の高山教室・年表
工芸技術講習所の概要
人物工芸技術講習所の学生、講師