飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI

明治神宮北鳥居「飛騨組」が建造

明治神宮鎮座100年

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祀るため 1920(大正9)年に鎮座した。
1912(明治45)年に明治天皇が崩御すると国民から明治天皇を記念する施設を創建したいとの声が沸き起こり、新たに神社が造営される事となった。 1916(大正5) 年から始まった造営工事には全国から職人や宮大工が結集した。

創建当時、荒地だった代々木の地に、永遠の森を造る壮大な計画で、その為に、全国から10万本の常緑樹が選ばれ奉納された。これは日本初の林学学者らが叡智を結集し林苑計画を立てた。また、延べ11万人の若者が造営奉仕の為に全国から奉仕団を結成し上京した。人工の森ながら、現在は自然の森となり、貴重な動植物が生育し、「生命の森」と呼ばれ、壮大な計画が見事に根付いたことを伝えている。明治神宮は2020(令和2)年に、鎮座100年を迎えた。

明治神宮 北鳥居(北参道大鳥居)

明治神宮には南北西参道の入口および南北参道出会口に1基ずつ、本殿周辺に4基の計8基の鳥居があり、いずれも明神鳥居という。一番大きなものが第二鳥居、その次は原宿の入り口にある第一鳥居、三番目が北鳥居になる。明治神宮鎮座直後に刊行された公式記録『明治神宮造営誌』には北鳥居に関する記述は次のわずか二行で飛騨の匠が建造したという記録はない。
「北参道口鳥居は両柱の間眞々23尺5寸、高さ28尺8寸、徑3尺、島木長さ48尺、笠木長さ43尺8寸」

島木(しまき):鳥居の笠木の下にあり、柱頭の上にのっている長い横材
鳥居は神域と俗域との境に建てられ、神域への入口を示すものであり、門の役割を果たすが扉はない。まさしく「結界」としての役割を果たしている。

現在の北鳥居

明治神宮・神職のご協力

飛騨護国神社・宮司様のご紹介で、明治神宮には偶然にも高山出身の神職が2名奉仕していることがわかった。両名とも飛騨出身の兜谷氏が持参した写真を見てからは明治神宮と飛騨を結ぶ鳥居の件をずっと気にかけて、明治神宮でもあきらめることなく強い関心を持って調査・検証を継続していた。タイミングよく飛騨の匠学会の編集者からご連絡し、情報・資料提供など絶大なるご協力をいただいた。

 

飛騨市出身・兜谷郁之氏が明治神宮ご造営記念の写真を持参

2015(平成27)年、飛騨市神岡町船津出身の兜谷郁之氏が明治神宮社務所に明治神宮ご造営記念の写真を持参された。兜谷氏の祖父の兜谷栄蔵氏が明治神宮の北鳥居(代々木側入口の鳥居)の造営に携わったと思われる記念写真で25名の人物が写っており、その内15名が「明治神宮飛騨組」と染め抜かれたそろいの袢纏を着ている。

写真の裏の書き込みに兜谷栄蔵氏により人名が記してある。その後、明治神宮でも調査したが期待する結果は得られなかった。しかし、兜谷郁之氏がこの写真を長い期間保存し、明治神宮に持参されたことにより写真挿入をすることができたわけで深く感謝するものである。

 

兜谷郁之氏からお話を聞く

飛騨市神岡町の実家を整理していた祖父栄蔵の明治神宮北鳥居建立写真を見つけた後、写真の由来を知りたく明治神宮国際神道文化研究所に写真を持参して出向いた。研究所の解説では明治神宮は東京大空襲で本殿などが焼失し多くの資料が失われ、この写真を見るのは初めてとのこと。

栄蔵は1889(明治22)年生まれで当時は31歳。前年に結婚してこの年7月に長男の忠雄(私の父)が誕生。子供5人の戸籍を調べたところ、父の出生届けは神岡町、次男と長女の出生届けは東京府下豊多摩郡淀橋町で、この場所は現在の東京都庁付近、北鳥居から代々木駅まで徒歩10分、代々木から新宿下車、南口から都庁まで徒歩15分位、徒歩でも40分位の距離だ。上記戸籍記録からは1920(大正9)年北鳥居建立〜1927(昭和2)年長女出生までの少なくとも7年間は東京府で祖父たちが在住していた。

壮大な明治神宮建立構想は当時の国家プロジェクトであり、この期間祖父は明治神宮建立の仕事をしていたと考えるのが自然であり、写真に写っているメンバーも同じように滞在していたことが容易に想像できる。兜谷氏も祖父である栄蔵が宮大工をやっていたことは承知していたが、寡黙な祖父であったらしく、写真以外に手掛かりは全くないと思われていた。

しかし、兜谷氏が祖父の残した写真を大切に保管し明治神宮に届けていただいたことで、その写真から当時の様子を読み取ることができた。

この写真を基に、知人や子孫の方などが判明し情報提供が得られれば幸いだと言い、兜谷氏のこの件に関することへの想いの深さを感じた。

 

明治神宮造営記念撮影
足場右側に「明治神宮北参道大鳥居」の記載がある

写真の裏側の造営参加者氏名(兜谷栄蔵執筆)

明治神宮造営局 工夫取締役 細洞竹之助

明治神宮ご造営記念の写真の裏に記載されている細洞竹二郎は工務課長木村殿(内務省の役人か)の隣に座っているので、この「明治神宮飛騨組」の棟梁であったものと思われる。

『飛騨の匠ものがたりパートⅠ』(141ページ)の「木工・現代の匠」(指物師・山下進一氏)に掲載した文中に、「細洞竹之介は大正9年に明治神宮造営局より工夫取締に任ぜられ、鳥居建設に携わった」と山下氏が語っていたが、この写真の裏に書かれている「竹二郎」が正しいと思った。

なぜならば当時、山下氏から口頭で聞いたことで氏名を証明する記録はなかった。しかし改めて竹二郎の孫、正男の長男健一氏が現戸籍を取り寄せ竹之助が正しい名前であったことが判明した。そしてこの取材が明治神宮鳥居建設の功労を顕彰するきっかけとなった。

 

神岡出身細洞竹之助の実績

1868(明治元)年〜1927(昭和2)年

 

大正9年 「明治神宮造営」工匠取締役に選ばれる
明治36年 高山市上宝町田谷「神明神社の神輿」建造 神輿の台座裏面に名前墨書き
明治38年
明治38年 古川町「真宗寺」の建築 庫裏の玄関右上の壁板に名前墨書き
(飛騨の匠学会平成20年発刊 『16人の講師に聞いた飛騨の匠』86ページ「神岡の木匠石田春皐」(講師:若田俊一氏)より引用)

 

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