飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI

指物・建具、技の伝承

指物師(家具職人)・建具師(建具職人)

指物の技は見えないところに隠れている

指物とは、釘などを使わず、木の部材を組手、継手、仕口といった凹凸の「ホゾ」の切り込み・掘り込みを接合する技術でタンスや茶道具などの小物から大物家具を製作する職人をいう。完成品は技術が内部に隠れていて表面にその技を見ることができないが、仕上げの完成度が高く木材の美しい木目を活かしていることが特徴である。

建具師(建具職人)の技は表に見せる

建具とは、開閉できる機能をもった室内の仕切りのことで、扉、窓、襖(ふすま)、障子や欄間などを鑿(ノミ)や鉋(カンナ)、鋸(ノコギリ)など多くの手道具を使用して製作し、現場に建て付けるまでの仕事をする職人をいう。
指物とは反対に、花組子のような木組み装飾を施し技が表に見えるのが特徴。目的に合った木材の選定と現場の建付け・収まり具合に寸分の狂い・ゆがみのない熟練の技が求められる。

技の伝承ものがたり

指物師 細洞正男

明治神宮大鳥居造営 宮大工細洞竹之助の孫

1916(大正5)年~2004(平成16)年

「明治神宮北鳥居「飛騨組」による建造」『新・飛騨の匠ものがたりⅣ』89ページ)で紹介した細洞竹之助は細洞正男の祖父であり、1920(大正9)年に明治神宮造営局より工夫取締に任ぜられ、鳥居建設に携わるほどの宮大工の名人であった。ものづくりの感性は正男に伝承された。

細洞正男は竹之助の孫として1916(大正5)年神岡で生まれ、20歳のときに東京に指物の修業に出る。船津工芸の柿下友平の紹介で、日本橋馬喰町和泉屋を介して、その下職である指物師折原道造の門下に入り、以後5年の間に仏壇を含めて5人の師匠に指導を受け神岡に戻る。戦後、天皇陛下岐阜県御巡幸の際、岐阜県の記念献上品として「春慶塗飾棚」を製作する。県からいただいた報奨金で神岡の料亭を借り切り三日三晩大盤振る舞いで使い果たしたと本人から聞いたことがあり、日本男子の気前の良い大物ぶりをうかがわせる豪快なエピソードである。

細洞木工所設立後、山下進一15歳1946(昭和21)年~1951(昭和26)年の5年間、福井澄夫18歳1952(昭和27)年~1957(昭和32)年に二人の弟子を取ったが、数十年後にこの二人が国の卓越技能者(現代の名工)を授与されたことは細洞師匠の厳しい指導力の賜物であり、人材育成の成果が出た貴重な事例である。

細洞正男は、日進木工の北村繁元会長から声をかけられ、1967(昭和42)年〜1980(昭和55)年の13年間にわたり日進木工に勤務。短い期間にもかかわらず厳しいものづくり姿勢を工場内で遺憾なく発揮し、新商品開発の試作や、特に若手社員への技術指導に力を尽くしたことにより、日進木工の人材育成における高い技術力の向上につながり、高品質なものづくりの基盤を築いたことの貢献度は高い。

生前「家具は古くなったらガラクタになるが、指物は骨董品になる」と名言を残した。祖父細洞竹之助とは宮大工と指物師の違いはあるにせよ木工技術の範疇では正に隔世遺伝といえる。その技と心は山下進一と福井澄夫へと継承された。

細洞正男が製作するものに合わせて自ら製作した数多くの道具(飛騨の匠ミュージアムに常設展示)を山下進一に保存管理を委託し、大切に保管した師弟の信頼関係を思うたびに、飛騨匠の技の伝承ものがたりを垣間見ている気持ちになる。職人が気に入って使った道具はだいたい使い切って破棄してしまい、ほとんど残されていないことが普通なのに整然と保存されていることは貴重である。

細洞正男手製 指物師の道具(飛騨・世界生活文化センター 飛騨の匠ミュージアム常設展示)

現代の名工 山下進一 (細洞正男の弟子)

1931(昭和6)年~2002(平成14)年 山進木工所 元会長

山下進一は、15歳1946(昭和21)年で、神岡の指物師細洞正男に弟子入りする。その頃は神岡鉱山が隆盛を極めていた時期で、亜鉛や鉛は東洋一の産出量を誇り町は景気が良く住人の収入もよかった。山下進一の父親山下丈吉は鉱山で働いていた関係で、鉱山への就職を勧められていたが指物師になることへの意志は固かった。ちょうど父親が福岡海軍航空隊に配属されたとき、偶然細洞正男と出会い、息子山下進一の弟子入りをお願いしたのが縁となった。弟子入り後は、今では想像できないほどの封建的な徒弟制度の中で、20歳まで5年間の修業をした。1952(昭和27)年福井澄夫も細洞師匠に弟子入りし、時期はズレたが山下進一が兄弟弟子となる。師匠の細洞正男は「俺は欠点だらけの人間や、だから俺のいいところだけ盗め」といい、技は教えてもらって習うものではないことを痛感したという。師匠は自分の手で殴ることはせず、煙管や物差し、ときには曲尺で殴り、その道具が壊れるほどであった。頭から血が流れ、直立不動で何時間も説教され血が顔に固まっていた。しかし、その時の説教が現在のものづくりの基本として、頭の中にしっかりと残っていると山下進一はしみじみと語った。

20歳で年季奉公が明け、新たに1951(昭和26)年から神岡町の建具師の渡り職人七社信二に師事する。社寺の建具が中心で三日三晩一睡もせず徹夜して完成した後、意識不明になったこともあった。

1953(昭和28)年に富山県井波町(全国的な欄間産地)の木彫家横山一夢(日展評議員)のもとに弟子入りする。弟子入りを願い出た時に横山氏は「指物をやり、建具をやり、さらに木彫をやろうなんてことは、枡の中のネズミが利口なネズミなら一つの隅をかじって外に出るだろうが、あんたみたいなネズミは四隅をかじっても外に出られないネズミになる」といわれて断られたが、玄関で土下座をして何時間も粘った末、ようやく弟子入りを許された。横山師匠は何も教えてくれなかったが、自分で工夫して仕事をしているうちに想像力が身につき、いつのまにかデザインの勉強も自然に覚えたと山下進一は語った。

25歳1956(昭和31)年2月に山進木工所を創業するまで、指物と建具と木彫の三つの職種の師匠に就いて、10年間に亘った修業を終了した。3人の師匠から風呂代と散髪代以外の賃金をもらったことはなく、逆に月謝と米を納め、それが当たり前の時代だった。日本における徒弟制度(後継者の養成と技術的訓練を行う)は事実上消滅したが、親方からの指導は厳しいが確実な伝承法であったという大きなメリットはあったものの、道具が壊れるほど殴るという厳しさと年季奉公(無料奉仕的な雇用)は今の時代では考えられない実態であった。
山下進一は、創業以来、飛騨春慶塗、和洋家具、建具の製作をはじめ、国・県の重要文化財等の保存修復を手掛け、現代の飛騨の匠の第一人者と評されている。

受注する多くの文化財の修復・復元作業は限られた予算枠で利益が限られ、最小限の収入が得られる程度であるが、修復で先人の遺したものにはいつも頭が下がるものがあり、昔の大工の卓越した技術力、想像力と気概に触れることができる喜びを感じながら、仕事を受けた以上は、とことん悔いのない修復・復元をすることが責務であり、一つの現場に入ると自然に時間の経過も収支のことも忘れて仕事に没頭してしまう。それらの経験を活かし、後世に伝えていくことこそ自らの生涯の責務として痛感していると語った。山下進一の存在は飛騨の誇りであり、現代の飛騨の匠である。全国建具展示会で内閣総理大臣賞を受賞した春慶塗六脚衝立は枠組みが指物師、枠内の花組子の細工は建具師、枠ぶちの彫りは彫刻師として一つの衝立を製作したもので三つの技を集大成したものである。

弟子の山下進一(左)が現代の名工を受賞したとき、ともに祝福する師匠細洞正男(右)

受注する多くの文化財の修復・復元作業は限られた予算枠で利益が限られ、最小限の収入が得られる程度であるが、修復で先人の遺したものにはいつも頭が下がるものがあり、昔の大工の卓越した技術力、想像力と気概に触れることができる喜びを感じながら、仕事を受けた以上は、とことん悔いのない修復・復元をすることが責務であり、一つの現場に入ると自然に時間の経過も収支のことも忘れて仕事に没頭してしまう。それらの経験を活かし、後世に伝えていくことこそ自らの生涯の責務として痛感していると語った。山下進一の存在は飛騨の誇りであり、現代の飛騨の匠である。全国建具展示会で内閣総理大臣賞を受賞した春慶塗六脚衝立は枠組みが指物師、枠内の花組子の細工は建具師、枠ぶちの彫りは彫刻師として一つの衝立を製作したもので三つの技を集大成したものである。

山下進一の代表的な事績

  • 富山県高岡市の日本一の禅宗七堂伽藍を有する瑞龍寺の修復工事に10年にわたって携わり、その3年後に国宝になったことは、山下進一にとって苦労が実った大きな喜びであった。
  • 平成10年博物館明治村に移築された旧日本聖公会京都聖約翰教会堂(聖ヨハネ教会堂、昭和40年重要文化財指定)の外部ステンドグラス窓枠修復工事
  • 高山市庁舎貴賓室の春慶塗のソファ、テーブル(140cm角×2台)、サイドボード等の指名製作

高山市市庁舎貴賓室の家具

飛騨・世界生活文化センター「飛騨の匠ミュージアム」のガラスケースに展示されている大小のかんな、のこぎりなど数多くの「指物師の道具」は、指物師細洞正男が自分で製作し使用していたもので、預託された山下進一が誰にも使わせず大切に保管所蔵していたものである。さらに、山下進一は家具や建具を受注したたびに、保管用に一つ余計に製作してきた多くの作品を「飛騨の匠ミュージアム」に展示と保管管理を依頼している。現物が遺されているという事実は正に山下進一のものづくりの精神に触れ、技術伝承する上の教材となり、後世に語り継ぐ掛け替えのない貴重な資料となっている。

伝統工芸「飛騨春慶」伝承に貢献

「飛騨春慶」は後継者不足による就業者の高齢化に伴い、伝承の危機に直面している。山下進一はこの現状を憂い、家具や建具などを製作することが絶えてしまうのを予測し、従前より作品や技法記録を保存し、約20点もの貴重なコレクションを保有している。飛騨・世界生活文化センターの「飛騨の匠ミュージアム」(博物館-岐阜県施設)では既に8回の「飛騨春慶 家具・建具展」を開催し、開催の都度、非常に高い評価を得ている。さらに、2012(平成24)年1月には、「メゾン・エ・オブジェ パリ」に出品し、世界から集まった多くの来場者から繊細にして精巧な「日本の美」であると称賛された。春慶塗木地師としての代表的な事績は高山市庁舎貴賓室のソファ、テーブル(140cm角)、サイドボード等を春慶塗で仕上げた。「飛騨春慶」木地師としての誇りとこだわりをもって技能伝承に貢献している。

山下進一が匠の技術伝承のために技法の記録として、春慶塗で製作した家具(指物)を「飛騨の匠ミュージアム」で保管している。
  • 下 - 座卓
  • 中 - 左 衛立、飾り棚
  • 上 - 障子

山下進一の受賞歴

1982(平成元)年 卓越技能者(現代の名工)労働大臣表彰
1992(平成4)年 黄綬褒章受賞
1992(平成4)年 全国建具展示会 内閣総理大臣賞受賞 (春慶塗六脚衝立)

現代の名工 福井澄夫 指物師・建具師

現代の名工 福井澄夫

1952(昭和27)年4月~1957(昭和32)年6月 神岡町 細洞木工所
1957(昭和32)年7月~1958(昭和33)年7月 東京都文京区湯島 上田墨縄堂
1958(昭和33)年8月~1959(昭和34)年11月 神岡町 細洞木工所
1959(昭和34)年11月~2009(平成21)年6月 神岡町 山進木工所
2009(平成21)年11月~2017(平成29)年1月 高山市 日進木工株式会社

受け継がれる飛騨の匠の木工技術 福井澄夫の技能

福井澄夫は、中学の時に一生をかけてやり通すと決めて木工職人の世界に入った。細洞正男師匠に弟子入りをしたが5年間の住み込みで3~4人の弟子が師匠の厳しさで辞めていった。細洞師匠のお子さんが泣き止まないことで福井澄夫が4回ほど殴られたことがあった。毎日朝は便所掃除、朝食づくりをし、頭がぶつかるような屋根裏の狭い部屋で梯子を上って寝泊まりしていた。兄弟子の山下進一は通いの弟子だった。徒弟制度の厳しさに耐えた時期だった。

東京湯島天神の近くの上田墨縄堂(国立博物館に修理室を構える。先代が飛騨出身で指物製造業を営み、飛騨とも友好な関係があった)でも少し修業をした後、1959(昭和34)年、山下進一が設立した山進木工所に入社し、重要文化財等の伝統的建造物内部の指物、建具分野の保存修復及び復元に長年従事し、徒弟の時期から培った知識・技能を駆使し、主に山下進一が企画・デザインし、福井澄夫が製作するというコンビネーションで、常に一緒に行動し、積極的に新しい仕事に取り組み、国宝瑞龍寺をはじめ数多くの文化財修復の経験を積んでおり、技術力においては群を抜いた存在で、組子細工のような繊細な技をこなす力量に優れ、常に意欲的に勉強する姿勢と妥協を許さず困難な仕事を成し遂げて大きな成果を上げ実績を積み重ねてきた生きざまは一生涯現役を貫く職人気質を持っていた。山下進一にとっては福井澄夫にものづくり全般を任せて経営に打ち込むことができた。

伝統技術である指物職と建具職の違いは、本来、技を隠し表に見えないようにするのが指物で、建具は逆に技を表に出すという違いがあるにも関わらず経験の蓄積により2つの技能を修得し、その複合的・重層的技能は幅広い対応力へと一体化し、多くの重要文化財建造物の物件ごとに異なる修復・復元を実現した。文化財修復は、修復品を完全に分解し既存部分を残し、老化・破損部分を除去したところのみ新しい材料を継ぎ足して修復する。これに対し復元は既に焼失等失われた文化財を図面や写真などの資料・記録をもとに新規に作り直して再現することである。

修復するモノや復元する図面を見て、即座にどの方法で実践するべきかの判断ができ、また最初につくった職人の技量、素材の質、製作工法、現場施工(組立、取付等)の方式を見抜き、復元のプロジェクトチームの指揮と指導力を発揮している。さらに、仕事に応じた道具の選別や自らの道具製作を通じて、効率と品質向上のために納得がいくまで探究をしており、その事績は高い評価と信頼を得ている。

「飛騨春慶」指物師の技能と伝承

経産省伝統的工芸品「飛騨春慶」の中でも大物に属する家具や衝立等の木地製作に指物・建具の2つの技能を駆使している。特に「組子細工(花組子)」や「浮き出し工法」により、和家具に限らず今日的な洋家具製作を実践し、伝統工芸を絶やさないための挑戦をしている。

 

名古屋城本丸御殿復元工事を完納

名古屋城本丸御殿は戦災で全焼しているので復元工事となる。木曽ヒノキを主材料とした板戸、障子、襖、杉戸、欄間など、約1,200本に近い建具を8年の歳月をかけて製作して現場取付施工まで行った。その間、現代の名工福井澄夫から日本の伝統である建具師の在来工法を機械加工しか経験のない若手に伝承された意義は大きいものがある。

当初は「1期工事で引退する」と言っていたが、2015(平成27)年我が国最高水準の技能を有し、他の技能者の模範たるにふさわしい卓越した技能者(現代の名工)の表彰を受け、結局3期工事の花欄間の完成まで成し遂げ、2017(平成29)年 日進木工を82歳で退任した。振り返ってみて福井澄夫の存在なしでは本丸御殿の建具の完成は成し得なかった。

2015(平成27)年卓越技能者(現代の名工)厚生労働大臣表彰

名古屋城本丸御殿の建具復元の製作のとき、2015(平成27)年9月卓越した技能とその貢献が認められ、厚生労働省より「卓越した技能者」として表彰された。

国宝や重要文化財など伝統的文化財の指物・建具の保存修復・復元に長年従事して培った知識・技能を持つこと。特に指物職と建具職の異なる技能を組み合わせる能力に卓越していること。これを駆使し数々の重要文化財の保存修復・復元に大きく寄与したことが認められた。さらに技能五輪全国大会や技能グランプリで若手選手を入賞させるまでに育て上げるなど、後進の指導・育成においても積極的に取り組み、業界の発展に多大なる貢献をしたことも評価された。

今回の受賞について、「自分で選んだ職業で、この道一筋にと決めてやってきましたが、この度の受賞は夢のようで、師匠や諸先輩、会社の皆様のお陰だと感謝しております。頂点のない仕事ですので、私自身も死ぬまで修業だと思っております。若い人たちには厳しい姿勢で製品の出来をどこが良くて、どこが悪いのかをしっかりと伝えて、心構えを持った職人を育てていきます。」と語った。

赤坂御苑の園遊会に招待

卓越技能者(現代の名工)の受賞の翌年、赤坂御苑の園遊会に招かれた。車いすに座っていた奥さんに、天皇様から「お元気に頑張ってください」とお声がかけられ握手していただいたそうだ。ご夫妻ともにさぞやお慶びだったであろう。

1967(昭和42)年から始まった国の表彰制度で高山市民として受賞された方々は大勢いるが、園遊会に招かれたのは福井澄夫が初めてと高山市の担当者がいっていた。厚生労働大臣表彰 卓越した技能者(現代の名工)は、1967(昭和42)年設置された以降2018(平成30)年まで高山市で29人が受賞されている。

人の絆というものは不思議な縁で結ばれている。細洞正男師匠の兄弟弟子山下進一氏と福井澄夫氏が一緒に山進木工所を盛り上げ、細洞氏と福井氏は時期がずれてはいるものの家具メーカー 日進木工㈱の技術基盤と人材育成に多大なる実績を上げた。

重要文化財保存修復・復元への貢献

重要文化財建具保存修復・復元を実現。代表的な事績は下記の通りである。

 

昭和61年 瑞龍寺 高岡市 日本一の禅宗七堂伽藍を有する前田利長の菩提寺
10年間にわたる修復工事完了から3年後に国宝となる、苦労が実り大きな喜びであった。
平成5年 吹上新御所私室造付家具製作
平成5年 岐阜県から皇太子(現天皇)妃雅子様のご実家(小和田様)への献上品3点セット(飾棚、衝立、座卓)を製作
平成5年 特殊な事績として、江戸時代初期に製作・使用され1901(明治34年)に廃止された玉川上水の埋没していた「木樋もくひ(現在の水道管)」を発掘したものを修理復元した。木樋の樹種はヒノキ、スギ、サワラ、ヒバ等。復元した実物は新宿歴史博物館に展示されている。
平成8年 高山市庁舎貴賓室のソファ、テーブル(140cm角)、サイドボード等を春慶塗で仕上げた。飛騨春慶業界において春慶仕上の大物家具の木地製作は実質的にはこの仕事が最後になったのではないだろうか。(一度仮組して部材ごとに春慶漆を塗りその後組み上げる)
平成11年 聖ヨハネ教会堂 博物館明治村 京都から移築された教会
(外部ステンドグラス窓枠を復元 新しい工法を開発)
平成15年 中村家住宅 浜松市 徳川家康の側室お万の方(長勝院)ゆかりの家
平成16年 箱根関所復元工事 江戸口・京口両御門を構える江戸幕府の交通の要衝
平成17年 本遠寺 山梨県身延町 家康の側室お万の方(養珠院)ゆかりの寺
平成21・22年 長野県下諏訪町 諏訪大社下社春宮・秋宮 祭りと彫刻が有名
平成25年 名古屋城本丸御殿復元工事 家康が築いた御殿 工期8年間

聖ヨハネ教会堂 外部ステンドグラス窓枠を復元

ページの先頭へ戻る