飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
奈良県の飛騨町
藤原京での飛騨匠の居住
日本初の都城・藤原京造営に携わった飛騨匠は、都が藤原京から平城京へ移った後も、現在の奈良県橿原市、大和三山の中央、飛騨町一帯(橿原市上飛騨町と飛騨町)に長く住んでいたと伝えられている。この上飛騨町の北側に藤原宮の入り口である朱雀大路跡(国指定史跡)が位置していることが奈良文化財研究所の調査資料からもわかる。飛騨の匠が都の造営に関し、いかに存在感が大きかったか推測される。
藤原京造営が終わった756(天平勝宝8)年に、孝謙天皇が飛騨町一帯の「飛騨坂所」と呼ぶ領地を南都・東大寺に与えたという書き付けが残されていて、当時すでに「飛騨」の地名が定着していたことがわかる。その後、鎌倉時代の後期まで東大寺の領有(荘園)が続き、室町時代の後期に至って当地の豪族・越智氏の支配下に入った。
江戸時代の初め1654(承応3)年から「飛騨村」と呼ばれ、幕府や郡山藩などの領域となった後、1679(延宝7)年に再び幕府領となった。1889(明治22)年には鴨公村の大字となり、1956(昭和31)年には橿原市発足で飛騨町となっている。
飛騨にちなんだ奈良での地名
藤原京などの都の造営に徴用された飛騨匠らの居住地には、出身地の名前がつけられたといわれ、飛騨にちなんだ地名として下記の地名が挙げられる。
- 飛騨(奈良県橿原市飛騨町)
- 古川(奈良県橿原市古川町)
- 河合(奈良県北葛城郡河合町)
- 月ヶ瀬(奈良県奈良市月ヶ瀬)
月ヶ瀬は、飛騨町からは距離がある地域である。現在はダム湖があるが、奈良時代から木材の伐採、運材をする杣地であった。南都の大寺の建築用材を切り出し、木津川水運を利用して木津から奈良まで運ぶための地域として発展した。
興味深いことに、これら飛騨にゆかりの地の位置関係は、岐阜の飛騨高山における位置関係とも似ていて、ふるさと飛騨にならって名づけられたと考えられている。
高山と飛騨町の交流
エピソード① 昭和〜平成
1994(平成6)年5月に飛騨の匠が造った藤原京で飛騨の匠の法要が開かれた。飛騨市河合町から50人、近畿飛騨会150人がこぞってバスで飛騨町へ駆けつけ、飛騨町では有力者や地元住民が体育館に多数集まり大々的な交流会も実現された。
1995(平成7)年5月、藤原京遷都1300年祭に「飛騨の美〜匠の心を伝える」のテーマを掲げ、藤原京の造営に携わった飛騨の匠の技術として、まつり屋台模型の「神楽台」「布袋台」「神馬台」「鳳凰台」の4基が展示・紹介された。
河合村の匠太鼓の演奏や飛騨の匠に関わる著名人も参加した。互いに歴史認識を深め大いに交流し、藤原遷都1300年の節目にあたり奇しくも飛騨人の絆が結ばれた歴史の一場面となった。
エピソード② 平城京遷都1300年祭に参加
2010(平成22)年奈良にて、飛騨木工連合会、飛騨の匠学会が中心になり、平城京跡のイベント会場で飛騨の匠展示を行った。今昔物語のからくりのお堂は好評を博した。その縁で後日、奈良県立図書館と高山市図書館煥章館が相互に奈良と飛騨を紹介するパネル展示会を行っている。