飛騨の匠

歴史に見る飛騨の匠

イメージ:歴史に見る飛騨の匠
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奈良時代末頃の成立で、現存最古の和歌集である『万葉集』巻11に詠まれているこの歌は、「飛騨人の打つ墨縄が正確無比な一直線であるように、あれやこれやと浮気はしない、その打つ墨縄のように一直線に、だた一筋の道を行くのだ‥」という想いを込めた恋い歌です。

この歌は、故郷から遠く離れた飛鳥や奈良の地で、真摯でひたむきに宮殿の造営にその腕を奮った「飛騨の匠」たちの姿を彷彿させてくれます。

税を免じてまでも必要と認められた「飛騨の匠」養老2年(718)、はじめて「養老令・斐陀国条」に登場します。

「飛騨の匠」徴発に関する規定は、養老2年(718)成立の養老令(賦役令)に見られますが、大宝元年(701)制定とされる大宝令においても、この養老令条文に相当する規定があったと考えられており、従って8世紀初頭には飛騨から匠丁の徴発 が始まっていたと思われます。

しかし、大宝令の制定時に飛騨国を突発的に指定して条文化されたものとは考えにくく、その背景には旧来から飛騨国には高度な木材加工や建築技術が顕在し、飛鳥や藤原期の頃より、中央での宮殿造営などに飛騨の工人が多数従事。

また、藤原宮・京の造営にも従事、奈良県橿原市には飛騨の匠の滞留地と思われる「飛騨町・上飛騨町」という地名が、往時の名残として現存しています。

イメージ:(都への道・東山道飛騨支路)
イメージ:(都への道・東山道飛騨支路)
イメージ:令義解・斐陀国条

旧来、「飛騨の匠」徴発についての概念は、飛騨の地が貧しいため通常の庸・調の税負担に応えられず、その代償として都での労役が課せられたとする、偏見的な考え方が多かったようですが、近年の古墳や古代寺院など数多くの発掘調査、 また、歴史研究が進むなかで考古学的見地からも、全国唯一飛騨に限っての制度という観点から考えても、「税の代償」というよりも「税を免じてまでも必要」と認められ、制度化された飛騨の匠だったと考えられます。

賦役令・斐陀国条(ひだのくにじょう)から分かることを要約すると、(1)律令制度下の飛騨国は、中央政府に納める税である祖・庸・調のうち、庸・調が全て免除されていた。(2)その代わりに里(郷)ごとに匠丁10人を差し出す。(3)その匠丁4人ごとに食事などの世話をする者1人を充てる。(4)その任期は1年とする。(5)匠丁とされた者以外の課丁(課役に該当する男性)は匠丁らの米を負担する。(6)その負担割合は、正丁・次丁・中男それぞれに数量を定める‥といった内容です。

貞観12年(870)には大野郡から益田郡が分立され、益田郡に2郷、大野郡に4郷、荒城郡に7郷、計13郷となっていますが、賦役令が定められた頃の飛騨は大野・荒城の2郡で10里程度とされ、人口は約1万2千人ほどだったと思われます。
従って、当初飛騨から上京した匠丁は年間100人を基準として、工事の規模によって増減されたものと思われます。大宝令制定以前より造宮や造都に参画していたと考えるならば、およそ500年間に亘って、飛騨から都へ出役した飛騨の匠は、延べ4~5万人にも達するのではないでしょうか。

平安中期の延長5年(927)完成の法典『延喜式』主計上によれば、飛騨と都の行程を「上14日、下7日」と記していますが、法典完成時より200年ほどさかのぼる平城遷都時の奈良への道程は、往時の道路事情を考慮すると、更に数日を要したと思われます。遠路、飛騨から集団で上京した飛騨の(奈良・平安時代/工匠編成表)匠は、中央政府の管轄下で奈良時代には造宮省・木工寮、平安時代には修理職・木工寮に配属されて労役に就いたのです。

奈良・平安時代/工匠編成表
イメージ:杉崎廃寺伽藍想像図

飛騨には7世紀後半から8世紀中頃までに大野・荒城の2郡に、飛鳥の地を彷彿させる17もの古代寺院が存在したことからも、中央との活発な往来が考えられますが、その中には飛騨市古川町の杉崎廃寺のように、全国的にも極めて希な、全域石敷きという7世紀代の宮殿構築の工法を採用したと思われる寺院もあり、正に飛騨人が直接的に宮殿建設に携わったことをうかがわせる例もあります。

また、7世紀(688)飛騨には律令政府に認知された伽藍が存在していたことを、養老4年(720)完成の日本最初の勅撰歴史書である『日本書紀』は記しています。伽藍と称される寺は単に仏殿のみならず、付設する堂塔を備えた本格的な寺院を示すものであります。
新羅の高僧「行心」が大津皇子の謀反に加担した罪として、飛騨国伽藍に配流されたとの記載があります。この飛騨国伽藍は、岐阜県文化財保護センターの発掘調査により、古川町太江の寿楽寺廃寺であったことが明らかになりました。このことは、当時の中央との密接なつながりは勿論、7世紀に飛騨が伽藍を造営する技術を有していたことをも読みとれます。

日本書紀
イメージ:飛騨国分尼寺復元想像図
イメージ:唐招提寺金堂・吹き放し

和銅3年(710)平城京に遷都して始まった奈良時代。都と飛騨の直接的な結びつきを伝える代表的なものの一つに、飛騨国分尼寺があります。金堂の建物は飛騨国分僧寺と同規模でありましたが、注目すべきは正面一間分が「吹き放し」の構造で、現存する奈良唐招提寺金堂や、興福寺東金堂と同じ様式であったことです。

この吹き放し構造は奈良時代最新の(飛騨国分尼寺復元想像図)デザインですが、全国の国分僧寺・尼寺でこの構造例は知られていなく、この奈良と飛騨のみに存在する構造例から考察すると、実際に建造に携わった工人たちの協力が無ければ、このような構造物は立てられるものではなく、この例からも飛騨と都の交流が活発であったことが理解できます。

尚、飛騨国分尼寺は天平勝宝9年(757)頃までには完成していたと考えられていますが、唐招提寺金堂の部材には781年伐採の桧材が使用されており、創建はそれ以降といわれていますので、飛騨国分尼寺のほうが20余年早い創建といえます。飛騨国分尼寺を建てた匠たちが、その技術と技能をもって奈良へ出向き、唐招提寺金堂の建立に参画したと考えられます。

従来、飛騨の匠の悲惨な逃亡説が、ややもすると誇大に語られる傾向にありました。確かに平安造都初期には、年間350日以下330日以上という過度な労働条件の時期もあり、都での生活は相当に厳しかったと思われますが、一概に逃亡とはいえないようです。

造都で活躍する飛騨の匠の存在が広く認知され、役終えた匠の技術力・労働力に対する需要が多く、有力者たちに雇役されて都に留まったり、また、他郷に赴いて飛騨へ戻る人が少なく、飛騨にとっては人材流失という現象が生じたのです。これらの観点から推しはかると、飛騨からすれば逃亡と見なされたが、使役からの逃亡ではなく故郷からの逃亡とも受けとれます。

イメージ:飛騨の匠碑・旧河合村月ヶ瀬

「飛騨の匠」は数百年間に亘って都に赴き、日本建築の黄金時代を築いてきましたが、この制度も平安末期になると武士階級の台頭によって律令の権威が薄れ、自然消滅的に終焉となって表舞台から姿を消しました。鎌倉期以降の新しい社会では、これまでの集団的なかたちから、個人的性格の匠となっていくのです。

イメージ:日下部民芸館・国重文
イメージ:祭屋台・国重要有形民俗資料

古代の飛騨国は、他国に類を見ない全国唯一の「斐陀国条」によって、匠丁を派遣する国として位置づけされ、国政の運営においても突出した役割を担ってきたのです。

実際に多数の匠が飛騨から都へ出かけて、政府機関の一員として就労したのであり、このような長期に亘る飛騨と都の往来が、都の文化・芸術などと直接的に接する機会となり、その交流が積極的に飛騨に都の文化が導入されることにつながったのです。

真摯で卓越した匠の技と心は綿々と子々孫々へ受け継がれ、高山の町家建築や祭り屋台にその伝統を垣間見ることができますが、こうした飛騨の雅やかな文化の源は「飛騨の匠」による、飛鳥~藤原~平城~平安という都の文化の継承とも申せましょう‥‥。

飛騨の匠 飛騨木工連合会

飛騨の家具メーカー