飛騨・高山の家具

飛騨・高山の家具の発祥

匠の伝統を受け継ぐ飛騨・高山の椅子づくり

イメージ:1920年高山町で椅子づくりがスタート

飛騨・高山には、古代の平城や平安の造都という国家事業に大活躍した「飛騨の匠」に総称される、全国唯一の誇れる木づくり文化と伝統があります。

伝統とは、ややもすると単に「古い」という言葉にとらわれがちですが、それは、その時々の「新しい」の蓄積であり、それぞれの時代の技術革新の集積でもあって、その軌跡が歴史と伝統を創ってきたことを忘れてはなりません。

飛騨家具の発祥はその伝統文化を受け継ぎ、大正9年創業の中央木工株式会社(当初より株式で創業。現飛騨産業株式会社)にさかのぼりますが、その歩んできた道のりは「飛騨の家具史」の源流そのものであり、更には「日本の洋家具史」と申しても過言ではありません。
大正時代の高山は岐阜へ140キロ、富山へ90キロの地点にあって、当時はまだ鉄道もなく(高山線の開通は昭和9年)自動車で岐阜まで9時間、人力車で二日間を要しました。また、四方を急峻な山々に囲まれて陸の孤島と呼ばれるにふさわしい、交通不便な山の中の町でした。

イメージ:ブナ 2
イメージ:ブナ 1
イメージ:自信の持てる商品ができるまでに2年

当時の高山は生糸生産が主産業であり、木材関係は素材生産が主で、加工産業は家内工業的なものがほとんどでした。飛騨一円に自生していながら、ブナ材は雑炭か下駄の歯程度の利用しかされていない無用の長物でした。

そんな中、高山を訪れていた「ブナ材を曲げて家具を作っていた」という、二人の技術者の話を聞いた町の有力者たちが資金を出し合って起業。アルプス山麓をはじめとする豊富なブナ資源を、家具に活用する試みが始まったのです。
政府の奨励もあり、取り組んだのは今日的にも難度の高いトーネット型の曲木椅子づくりでした。試行錯誤が繰り返され、曲げじわの発生や塗装が剥げるなど、当初は苦難の連続でしたが改良を重ねて次第に品質も向上、ようやく自信の持てる商品が生産できるまでに2年、本格的な販路開拓までには約3年間を費やしたようです。

大正12年には飛騨木工株式会社へと改組。その後、世界大戦時には軍需工場として、木製飛行機や落下タンク等の製造に従事。激動の昭和前期を経て、昭和20年(1945年)には商号を飛騨産業株式会社に変更して平和産業に復帰しました。

国内にはこのころ創業した家具メーカーも、数社ありましたが、時代の大きな変遷で淘汰され、健全な形で今日を迎えているのは、唯一「飛騨の家具」のパイオニアで、キツツキブランドで著名な現在の飛騨産業株式会社です。

イメージ:落下タンク制作 高山高等女学校
イメージ:昭和18年 飛騨木工時代のカタログ
高山木工会から協会組合飛騨木工連合会へ、ちゃぶ台から椅子のダイニングへ。
イメージ:1987東京展 新宿NSビル

飛騨産業株式会社に続いて、昭和18年には柏木工株式会社、株式会社イバタインテリアが、昭和21年には日進木工(株)等々が相次いで創業。
昭和25年(1950年)5月には、親睦団体としての高山木工会が結成されます。

その後、昭和35年には株式会社シラカワの創業などがあり更に拡大、昭和49年(1974年)には発展的に飛騨木工連合会に改組。昭和57年(1982年)には協同組合の認可を取得し、地場のリーダー産業として確固たる地位を固めました。

イメージ:1989大阪展 my donme osaka
イメージ:2001ロサンゼルス展 hida pacific

その間、昭和26年(1951年)に公団住宅の規格51C型において、広めにした台所にテーブルと椅子を置いたDK(ダイニングキッチン)が採用。モダンな生活の象徴とされ、マンションや戸建て住宅にも普及。日本の食スタイルが「茶の間のちゃぶ台から椅子のダイニング」へと大きく移行し、これがわが国の本格的な椅子生活への幕開けとなっていくのです。

以降、椅子を中心とした家具産地に発展した飛騨・高山は、その消費地であります都市部でのブランドアピールを、他産地に先駆けて積極的に行ってまいりました。更には、飛騨の家具のデザインと、世界品質の優秀性を飛騨から世界へ向けて発信すべく、パリやロサンゼルスへも積極的に出展。視野を世界に向けた活動を継続しています。

飛騨家具の発祥 飛騨木工連合会

飛騨の家具メーカー